也田貴彦blog

おもに文学やお笑いについて。

歌詞和訳 Bob Dylan "Tangled up in blue"

"Tangled up in blue"

【原文】
Early one mornin’ the sun was shinin’
I was layin’ in bed
Wond’rin’ if she’d changed at all
If her hair was still red
Her folks they said our lives together
Sure was gonna be rough
They never did like Mama’s homemade dress
Papa’s bankbook wasn’t big enough
And I was standin’ on the side of the road
Rain fallin’ on my shoes
Heading out for the East Coast
Lord knows I’ve paid some dues gettin’ through
Tangled up in blue

She was married when we first met
Soon to be divorced
I helped her out of a jam, I guess
But I used a little too much force
We drove that car as far as we could
Abandoned it out West
Split up on a dark sad night
Both agreeing it was best
She turned around to look at me
As I was walkin’ away
I heard her say over my shoulder
“We’ll meet again someday on the avenue”
Tangled up in blue

I had a job in the great north woods
Working as a cook for a spell
But I never did like it all that much
And one day the ax just fell
So I drifted down to New Orleans
Where I happened to be employed
Workin’ for a while on a fishin’ boat
Right outside of Delacroix
But all the while I was alone
The past was close behind
I seen a lot of women
But she never escaped my mind, and I just grew
Tangled up in blue 

She was workin’ in a topless place
And I stopped in for a beer
I just kept lookin’ at the side of her face
In the spotlight so clear
And later on as the crowd thinned out
I’s just about to do the same
She was standing there in back of my chair
Said to me, “Don’t I know your name?”
I muttered somethin’ underneath my breath
She studied the lines on my face
I must admit I felt a little uneasy
When she bent down to tie the laces of my shoe
Tangled up in blue

She lit a burner on the stove
And offered me a pipe
“I thought you’d never say hello,” she said
“You look like the silent type”
Then she opened up a book of poems
And handed it to me
Written by an Italian poet
From the thirteenth century
And every one of them words rang true
And glowed like burnin’ coal
Pourin’ off of every page
Like it was written in my soul from me to you
Tangled up in blue

I lived with them on Montague Street
In a basement down the stairs
There was music in the cafés at night
And revolution in the air
Then he started into dealing with slaves
And something inside of him died
She had to sell everything she owned
And froze up inside
And when finally the bottom fell out
I became withdrawn
The only thing I knew how to do
Was to keep on keepin’ on like a bird that flew
Tangled up in blue

So now I’m goin’ back again
I got to get to her somehow
All the people we used to know
They’re an illusion to me now
Some are mathematicians
Some are carpenters’ wives
Don’t know how it all got started
I don’t know what they’re doin’ with their lives
But me, I’m still on the road
Headin’ for another joint
We always did feel the same
We just saw it from a different point of view
Tangled up in blue

・・・・・・・・・・・・・・・

【和訳】 
ある早朝 太陽は輝き
俺はベッドで寝転んでいた
彼女はすっかり変わってしまったか
髪はまだ赤いだろうかと考えていた
彼女の家族は言っていた
俺たちの生活は全くつらいものになるだろうと
みんなママのお手製のドレスが好きじゃなかったし
パパの預金通帳は充分じゃなかった
俺は道端に立っていた
雨が靴に降りかかっていた
俺はイーストコーストへ向かった
俺が経験を積んで切り抜けてきたことを神は知っている
ブルーにこんがらがって

最初に出会ったとき彼女は結婚していた
でもすぐに離婚した
彼女が窮地から脱する手助けを俺はしてやったと思う
でも俺は少し乱暴すぎたみたいだ
俺たちはできるだけ遠くへ車を走らせ
遠い西部で乗り捨てた
悲しい闇夜に俺たちは別れた
それが一番良いんだと納得して
彼女は振り返って俺を見た
俺は歩き去っていくところだった
彼女が俺の肩越しに言うのが聞こえた
“いつかまた通りで会えるわよ”
ブルーにこんがらがって

俺はグレートノースウッズで職を得て
しばらくコックをやっていたが
仕事は全く好きじゃなかったし
ある日ついにクビになった
それからニューオリンズへ放浪し
たまたま雇ってもらって
漁船でしばらく働いた
ドラクロワ島のすぐ沖で
でもずっと俺は孤独だった
過去はぴったりと後ろに寄り添っていて
多くの女に会ったが
彼女が心から消えることはなかった 俺はいっそう
ブルーにこんがらがって

彼女はトップレスの店で働いていて
俺はビールを飲みにそこへ入った
ただただ彼女の横顔を見つめ続けていた
くっきりとしたスポットライトに照らされるそれを
あとで客がまばらになった頃
俺も同じように外へ出ようとした
そのとき彼女が俺の椅子のすぐ後ろに立っていた
そして言った ”あなたどこかで会ったかしら”
俺は小声でぼそぼそ呟いた
彼女は俺の顔の皺を見つめた
少し落ち着かない気分だったのは認めよう
彼女が俺の靴紐を結ぶために屈み込んだときには
ブルーにこんがらがって 

彼女はストーブに火をつけて
俺にパイプを差し出し
“どうしてもあいさつすらしないのね” そう言った
“寡黙な人ね”
それから詩集を開いて
俺に手渡した
イタリアの詩人の書いた
13世紀の本だった
全ての言葉が真実のように響き
燃える石炭のように輝き
全てのページから溢れ出していた
まるで俺が君へ魂を込めて書いたものみたいに
ブルーにこんがらがって

俺はみんなとモンタギュー通りで
階段の下の地下室に住むことにした
夜にはカフェで音楽が流れ
革命の雰囲気が漂っていた
あるときあいつがろくでもない奴と取引をし始めて
あいつの中の何かが死んだ
彼女は持っているものを全部売り払う羽目になって
心は凍りついてしまった
もう取り返しがつかなくなったとき
俺は引き上げることにした
唯一やり方を分かっていたのは
とにかく流れ続けるということ 鳥が空を飛ぶように
ブルーにこんがらがって

そういうわけで俺はまた元に戻ろうとしている
ともかく俺はまた彼女と連絡を取るようになった
俺たちがかつて出会った人たち
今じゃみんなが幻さ
数学者もいたし
大工の嫁さんもいた
どうやってそうなったか知らないし
どう生活しているのかも知らない
一方俺は相変わらず道端に立って
また別の場所へ向かおうとしている
俺たちはいつだって同じ気持ちだった
ただ捉え方が違っていただけなんだ
ブルーにこんがらがって

・・・・・・・・・・・・・・・

後半の"I lived with them on Montague Street"から始まる段落がよく分からなかった。このthemやheやsheは誰なのか。sheはずっと登場しているsheと同じなのか。deal with slavesは時代的に奴隷ではなさそうなので「ろくでもない奴と取引」と訳してみたが。

ご意見ご指摘、歓迎。

歌詞和訳 Bob Dylan "She belongs to me"

来週ボブディランのライブに行くので
予習をかねて歌詞を和訳。 

"She Belongs To Me"

【原文】

She's got everything she needs
She's an artist, she don't look back
She's got everything she needs
She's an artist, she don't look back
She can take the dark out of nighttime
And paint the daytime black. 

You will start out standing
Proud to steal her anything she sees
You will start out standing
Proud to steal her anything she sees
But you will wind up peeking through her keyhole
Down upon your knees.

She never stumbles
She's got no place to fall
She never stumbles
She's got no place to fall
She's nobody's child
The Law can't touch her at all.

She wears an Egyptian ring
That sparkles before she speaks
She wears an Egyptian ring
That sparkles before she speaks
She's a hypnotist collector
You are a walking antique.

Bow down to her on Sunday
Salute her when her birthday comes
Bow down to her on Sunday
Salute her when her birthday comes
For Halloween buy her a trumpet
And for Christmas, give her a drum.

 

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【和訳】

あの子は欲しいもの全部手に入れた
芸術家だし、うじうじしない
あの子は欲しいもの全部手に入れた
芸術家だし、うじうじしない
夜から闇を取り出して
昼間を黒く塗ることだってできる

君は立ち上がって
あの子の見るもの全部を得意げに盗もうとする
君は立ち上がって
あの子の見るもの全部を得意げに盗もうとする
でも結局鍵穴からあの子を覗き見ようと
ひざまずいてるだけなのさ

あの子は決してヘマを犯さない
落ちていく場所もない
あの子は決してヘマを犯さない
落ちていく場所もない
あの子は誰の子どもでもない
法律なんかじゃ縛れない

あの子はエジプトの指輪をはめていて
喋ろうとするときらめくんだ
あの子はエジプトの指輪をはめていて
喋ろうとするときらめくんだ
あの子は催眠術師を囲ってる
君なんかは歩く骨董品だな

日曜にはあの子にお辞儀をして
誕生日にはあの子を讃えるよ
日曜にはあの子にお辞儀をして
誕生日にはあの子を讃えるよ
ハロウィンはトランペットを買ってやる
クリスマスにはドラムをあげるんだ

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2番はちょっと飛躍させてしまったかな。あまり自信なし。
"steal her anything she sees" の構文がよく分からない…。
ご意見ご指摘、歓迎。

ザコシショウを笑う/笑わないの分かれ道

R-1ぐらんぷり2016で優勝を飾ったハリウッドザコシショウ。ネット上では彼の優勝を讃える言葉ももちろん多くあったものの、逆に「何が面白いのかわからない」「ただ怒鳴ってるだけ」というような否定的意見も散見された。僕自身は、獣性の解放とでもいうべき思いきりのよい彼の芸に存分に笑わせてもらったし、仮にあの芸が野蛮なだけであるとしても、野蛮さの突き抜け具合に紛れもない独自性を感じて圧倒されたものだった。要するに僕は肯定派だ。なので、否定派の人たちがザコシショウを面白く感じるなんらかの術はないのだろうかなどと、少しばかり考えこんでしまったのである。

昨年、オールザッツ漫才でZAZYという若手ピン芸人がネタを披露した。彼はかなり突拍子もない、摑みどころのないフリップ芸を得意としており、このときも相当奇抜なネタを演じ客席を笑わせるというよりは困惑させていた(記事の最後に動画を載せています)。彼のネタが終わったあと、MCの笑い飯・哲夫は客席に向けてこう発言した。「みなさん、ZAZY を観るときは、頭の中に小さなツッコミを置いて観てくださいね」。つまり「なにをしてんねん」「意味分からんわ」など、ZAZYを観ながら自分で心の中でツッコめば楽しめるでしょ、ということである。

この哲夫のレクチャーは実に啓蒙的だ。ザコシショウの芸にも同じ事があてはまる。僕は彼の芸を観る時、無意識のうちにツッコんでいる、意識的にやっているわけではないがそうだと自分なりに思う。「勢いだけやないか」「こわいわ」「なんやその動き」「どこが木村拓哉やねん」「古畑任三郎そんなん言わんわ」などなど。思うに、ザコシショウを面白くないと言う人は、”全くツッコミ気質でない”人なのではないか。漫才などでボケとツッコミの役割分担がなされている場合、ツッコミはボケの矛盾や不条理性を解説・指摘することで、お客さんの共感と笑いを呼び起こす。ピン芸の場合はツッコミ役がいない。ボケがどんなに意味不明であったり不条理であったりしても、観客はそのまま受け止めるほかない。そこでぽかんとして心を閉ざすのか、はたまた自らツッコミ役になって笑い飛ばすのか。ここがザコシショウを楽しむ人と楽しまない人の分かれ道だと思う。

僕の友人に、大学入試の現代文をツッコミの視点で読み解いてみるという、ユニークで興味深い記事を書いた者がいる。(コレ↓)

この記事の後半で書かれている「ツッコミはボケと同様にクリエイティブであり、ツッコミ能力は社会における創造的コミュニケーションにも活きてくる」という内容に僕も完全に同意する。ツッコミは要するに”気づき”で、それにより笑い、つまり肯定的反応を引き起こすポジティブな働きかけなのである。お笑いに限らず映画でもアートでも文学でも社会問題でも、理解不能なものに出会ったときに、理解不能であるという理由だけでただ顔をそむけるのではもったいない。ツッコミは自分とは異なる考えや未知の世界(≒ボケ)に向かためのひとつの有用な所作であり、対象をより詳しく知るためのきっかけにもなろうものなのだ。

ザコシショウを笑うことは、ある種の異文化コミュニケーションを楽しみ自分の視野を広げることと同値なのだと言ってしまえば、否定派の方々のうちグローバルな嗜好をもつ層なら少しばかり騙されてくれるだろうか。もっともこちらは騙すつもりではなくけっこう本気で言っているのだけれども。

 

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オールタイム漫才ネタベスト10 ⑩スリムクラブ「人違い」

ジャズミュージックの世界ではテンポの速い曲が流行したあとテンポの遅い曲が流行ったという歴史があるのを聞いたことがあるが、同じように、ネタのテンポの遅速という側面から漫才の歴史を説明することもできる。

かつて島田紳助は、当時主流だった漫才のテンポを8ビートとすれば自分たちの漫才は16ビートであったと表現した。倍の速さで言葉を詰め込むスタイルにすることで、新しい漫才を作り出そうと考えたという。実際、彼らの16ビート漫才は1980年代初頭の漫才ブームの波にも乗って大いに流行した。しかし漫才ブームが終焉すると今度はダウンタウンが登場してきた。彼らは4ビートの漫才だった、と紳助は評する。ダウンタウン紳助竜介などに代表されるような速い漫才を否定し、あえてテンポを遅くすることでまた新たな地平を切り開いた。

それから20年以上経った後、M−1の舞台でも同じような現象が起こった。2008年に優勝したNON STYLEは16ビート漫才だった。4分という短い制限時間のなかでより多く笑いを生み出すために、彼らは徹底してテンポを上げボケの手数を増やす戦法に出た。2009年優勝のパンクブーブーや、言葉遊びボケをこれでもかと連発するナイツも、ボケの多さという意味では16ビートといえるだろう。そんな潮流がM−1を席巻していた頃、2010年のM−1決勝の舞台に立ったのがスリムクラブだ。彼らのネタは逆に、非常に間を長くもった4ビート漫才だったのだ。

 

漫才のテンポを遅くする場合、言葉数やボケの数が少なくなるというハンディキャップを背負うことになるため、爆発的な笑いを生むためにはよほどのうまい計算と必然性がなければならないだろう。

ダウンタウンは漫才を作る時、ある設定から苦もなく導けるであろうベタなボケを出し尽くした後、じゃあそれを崩しずらしてどんな新しいボケを作り出せるだろうかと考える、という手順を踏んでいたのだという。そんな作業を経ることで、松本の一見理解しにくいシュールなボケ――真骨頂はクイズネタでの「たかし君はリンゴを5個買いにいきました。さて…なんでしょう?」だろう――が生み出されることとなった。それは誰も観たことのないタイプのボケだった。人間が理解不能なものに出会ったときには、”戸惑い笑い”とでもいえる気持ちの悪い尾を引いた笑いが生まれるが、それを完全に掬い上げるには長い間(ま)が必要だ。そしてその間をやり過ごし観客に充分に咀嚼させたうえで、浜田が戸惑いについて的確な説明・指摘を加える、だから大きな笑いがつくられる。これがダウンタウンの漫才だった。つまり松本の先鋭的なボケは、テンポの速さを捨ててこそ活きてくるものだった。

ネタの設定やキャラクタライズのあり方は全く違えど、スリムクラブのこのネタも理解不能な発言でツッコミの動きを封じるという手法であり、テンポを遅くするだけの説得力を充分にもっている。真栄田は自分の風貌と声を活かして精神を失調した人間の雰囲気を醸成することに成功しているが、このキャラクターの不気味さもスローテンポでこそじわじわと効いてくるものだ。またここまでテンポが遅いとひとつひとつのボケに何が出てくるのか当然観る者に期待をもたせてしまうわけだが、「この世で一番強いのは放射能」「この世で一番弱いのはうずら」「実家の土地に勝手に大きな塔を建てた」「左手全部折ります」「こうして成長してきたんです」などなど、いちいち期待を見事に超えてくれる。自身のキャラクターを見極める客観的視点でスローテンポを必然的に導き出し、なおかつ天性の大喜利力によって笑いの総量を担保しているネタなのだ。

2010年のM-1でこの漫才が演じられた後、審査員の松本人志は「時間が惜しくないのかね」と感想を述べた。それは挑戦心を讃えての愛のあるツッコミであったのだが、かつてまさに時間が惜しいような表現を発明し漫才を変革した自分の姿を重ね合わせもした発言だったのだろうかと、僕はテレビを前にして余計な推測をしたものだ。

このスリムクラブの登場により2010年代はテンポの遅い漫才にスポットが当たるかに思われたが、そうではなくその後THE MANZAIではウーマンラッシュアワーが台頭し、逆に32ビートともいえる超早口漫才が一世を風靡した。この一連の流れもまた、漫才の様式の変遷を考えるうえでは興趣に富んだ現象だろう。

 

(画質はかなり悪いです)

オールタイム漫才ネタベスト10 ⑨ガスマスクガール「走馬灯」

コントと漫才の違いとはなんだろう。

動きの少ないのが漫才??衣装を着るのがコント??いろいろな考え方があると思う。僕がなんとなく思っている区別の仕方はこうだ。漫才とはセンターマイクの前に立った素(す)の芸人が主役になる表現形態であり、コントとは芸人によって演じられる登場人物が主役になる表現形態である。噛み砕いて言えば、漫才は『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、別人を演じることなく本人自身としてしゃべることで何かを表現するネタ』、コントは『芸人たちが別人を演じることで何かを表現するネタ』…ということ。

ところが周知の通り、いまの若手漫才師たちのネタを見渡してみると、漫才にコントの形式を用いるネタがなんと多いことか。例えば2007年のM-1で優勝したサンドウィッチマンのピザ屋のネタ。二人はさっさと店員と客というコントの設定に入る。これはセンターマイクをどけて店員の制服と客のラフな服装に着替えてしまえば、キングオブコントでも何の問題もなく披露できるタイプのネタだ。つまりセンターマイクの前で演じるコントなのである。これに対し、コントに入ることなく純粋に本人たち自身のしゃべくりで勝負する漫才師(チュートリアルブラックマヨネーズ海原やすよともこ囲碁将棋、銀シャリ、学天即、・・・)は、きっと漫才とコントを峻別したいというこだわりをもってネタ作りをしているはずなのだ。

しかし僕はここで自分に疑念を感じる。サンドウィッチマンの漫才を、コント形式の漫才だからと言って否定することなどできるだろうか? 事実、サンドウィッチマンのネタはめちゃくちゃ面白い。純粋なしゃべくりにこだわるあまり、本当に面白いネタを切り捨ててしまうようなことになれば、本末転倒だ。原則論は原則論として、漫才を楽しみ愛するうえではもっと別の視座が必要なのではないか。 

そこで僕は冒頭に言った内容を修正しようと思う。『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、別人を演じることなく本人自身としてしゃべることで何かを表現するネタ』、これを”狭義の”漫才と言い直すことにする。一方、もっと自由度を高めて『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、どんな形式であれしゃべることで何かを表現するネタ』。これを”広義の”漫才としよう。当然、面白い漫才は狭義にも広義にも存在する。というか面白いかどうかに狭義か広義かは関係ない。

 

ずいぶん前置きが長くなってしまったが、今回のガスマスクガールのネタの話だ。このネタを見て、これは漫才といえるのか? コントではないのか? コントですらなく演劇なのではないか? などなど、訝る人は多いだろう。僕自身もこのネタのジャンルについては迷うところがあった。しかし結果的には、上のように”広義の”漫才を肯定することによって、順接的にこの走馬灯のネタを紛れもない漫才であるとみなし擁護しようと思うに至ったのだ。

お笑いに限らず、文学であれ音楽であれ映画であれ、表現の世界にはジャンルの議論がつきまとう。芥川賞直木賞はどう違うのか…純文学と大衆文学はひょっとするとどの雑誌に掲載されるかで決まる程度の区別ではないのか…ロックとパンクはどう違うのか…TSUTAYAの棚の名称付けにも腑に落ちないものが多い…。境界はえてしてファジーだ。必然的に、ジャンルとジャンルの境目にあるような作品、容易なジャンル分けを拒むような作品が生まれるわけだが、間違いなく言えるのは、そういった作品こそ様式や類型の狭苦しい壁を押し広げるための可能性や個性をはらんでいるということだ。これは漫才なのか、コントなのか、演劇なのか…そんな迷いを感じさせるネタこそ、”広義の”漫才の一番端っこ、ジャンルの国境線上に陣取る漫才であり、漫才の領土拡大を狙う果敢な意志をもったネタだと思うのだ。

「優れた漫才のネタはどれか」を考える作業は、つまるところ「漫才とは何か」を考える営みに直結する。ガスマスクガールの『最も漫才らしからぬ漫才ネタ』を言祝ぎつつ、そんなことを考える。

 

オールタイム漫才ネタベスト10 ⑧流れ星「ひじ神様」

漫才の設定にもいろいろあるが、世にも特異なキャラクターなりシチュエーションなりのアイデアを思いつくことができれば、「デート」「医者」「美容院」など目新しさのない設定を持ち出すよりも当然アドバンテージを得られるのは事実だろう。笑い飯の「鳥人(とりじん)」などその最たるものだ。

「ひじ神様」もそうである。「♪腕と腕をつなぐ関節ひーじ!ひーじ!」という歌を思いついた時点で、相撲で言えばまわしを掴んだも同然だ。ただしもちろん、それだけで勝利が確定するわけではない。いかにキャラクター造形や設定に魅力があっても、構成に瑕疵があれば――かつてM-1グランプリで披露されたPOISON GIRL BANDの「鳥取と島根の違い」という素晴らしい着眼点のネタが、残念ながら展開の質において期待を上回れなかったように――あわれ、漫才の魔物にするりと身をかわされ土俵に手をついてしまうという場合も多い。

その点「ひじ神様」のネタでは、流れ星のふたりが終盤に強靭なスタミナと腕力を発揮している。最も勢いと重さのあるぶつかりをラスト1分間で見せてくれているのだ。前半はちゅうえいの唐突なギャグの割合が多いため、観客はそのアホさと散漫さにまんまと油断するわけだ。だが後半になるとひじ神様の祭を軸にして思いがけないサスペンスが展開し、びっくり仰天してしまうのである。この前半と後半のギャップの妙味にはこたえられない。わざと防御を緩め相手を誘い込んでおき、その倍の力で突如肉体を跳ね返し尻餅をつかせてしまうような心憎い戦術だ。演じる側としては首尾よく狙いがはまってさぞ気持ちいいことだろう。本当の相撲であれば客席で座布団が飛び交うところだ。

また「肘神様」という幼稚な設定に、こんな土着的・呪術的な味わいをもったストーリーを組み合わせるセンスも良い。かつて松本人志は「幼稚さに技術が加われば大きな笑いが生まれる」と語っていたが、まさにその実践版といえるネタだ。隣村のひざ神様まで登場するというオチの飛距離にも快哉を唱えたい。

 

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オールタイム漫才ネタベスト10 ⑦千鳥「ブラックジャック」

2003年のM-1グランプリで千鳥が初めて決勝の舞台に立って以来、僕は数多くの千鳥の漫才を見てきた。彼らのネタは良くも悪くも野蛮だ。初期(2009年ごろまで)の彼らのネタは特に荒削りなものが多かった。冒頭に提示する発想は奇抜ではあるものの、あえて大きく展開させず最後までひとつの発想を引っ張ったり繰り返したりするネタが多い。(「エロ虫取り」「泥棒田泥男」「百拓クイズ」「おぬし、たわし、できちゃったムエタイ」「展開を全部先に言う桃太郎」…)。瞬発力で勝負し、漫才を整理することなど拒否していたということだろう。オードブルからメインディッシュへと盛り上げるようなフルコースではない。木からもぎ取ったリンゴをそのまままるかじりさせるような原始的なもてなしだ。そのリンゴにはいつも独特の風味と新鮮さがあり、僕などは病みつきになってしまったのだが、いかんせんリンゴだけでは飽きが来るのも事実で、豪華な正餐を期待している来客たちの舌と腹を満足させるのは難しかった。

そこで2010年ごろから彼らはネタの方向性を変えてきた。具体的には、ごく普通の漫才コント風のシチュエーションを導入に用いることが多くなったのだ。「旅館」「寿司屋」「医者」「通販」。僕は一見して、それによって彼らの持ち味が薄まるのではないかと危惧した。しかしそうはならなかった。彼らのクセの強さや良い意味でのしつこさは、漫才コントという箱の中に一旦入れられても、その箱を握り拳で破き壊してしまうほど抜群の躍動感をもっていた。それに"一旦箱に入れられる"ことが後半の爆発を準備するための導火線となっているという点で、結果的に構成の面でも巧みになったのだ。これは一般的なコース料理の手順を踏みながらも要所要所に最高級のリンゴの味わいを効かせるというワザに他ならない。彼らは自分たちのこだわりとアクの強さをそのままに、テクニックとホスピタリティを身につけたのである。THE MANZAIで好評を博した「白米(はくべい)」などはその一番の成功例だろう。

このネタもそうだ。導入やシチュエーションに目新しさがあるわけではない。しかし大悟の気狂いめいた振る舞いによって漫才はどんどん正規のルートを外れていき、最後には我々は思いもよらぬ僻地へと連れて行かれることになる。野蛮さのボルテージをあらわす曲線の、なんと急勾配なことか。「前髪を切ってマントをとれ!」「エクレアみたいにかかってるだけですよ」などノブのツッコミも調子がいい。思いきりグロテスクで徹底的にナンセンス、破格の面白さだ。

 

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