也田貴彦blog

おもに文学やお笑いについて。

言葉の曲線を伸ばして心理との距離を詰める。

抽象化された言葉は手に負えない。「楽しい」も「悲しい」も「嬉しい」もよく分からない。「愛」や「心」や「善悪」や「美醜」となるともっと分からない。例えば小説を読んでいても、あまりに抽象的な単語が多く出てくると頭がついていかなくなる。最近読んだもので言うとジュネ「泥棒日記」は抽象名詞が頻発するので苦手だった。逆にボラーニョ「2666」は登場人物の心理の解説が少なく、出来事と描写を淡々と書き連ねていく文体がすごく好みだったし、ソローキン「親衛隊士の日」も、物や人の描写の羅列が随所でアクセントとなってくるのが愉快だった。小説を自分で書くときも同じで、俺は具体的なエピソードや描写でできるだけ多く語りたい。というかそもそも物語を抽象化するような言葉を武器として持っていない。この文章で何を表現しているのかとか、この文章のテーマは何かなどと考えながら書いたことはないし、聞かれても答えられない。だから俺は評論とか批評の力が壊滅的にない。

 

認知症になった祖母は、老人ホームで描いたぬり絵を自宅の壁に何枚も飾っていた。子どもの作品のような塗り絵の数々を指差して、「仕事でこれ描いとるんやわ」と言っていた。老人ホームの職員にこれは仕事だと教え込まれたのか、あるいは祖母が勝手に仕事だと思い込んでいるだけなのかは分からない。日常生活を満足に送れないからこそ毎朝老人ホームへの迎えの車に乗せられている身分だというのに、自分は社会人として元気に仕事へ行っているだけだと祖母は信じきっている。当時中学生だった俺は、祖母の言葉を聞いて胸のあたりが熱くなった。このときの俺の気持ちは一番単純化した言葉でいうと「悲しかった」となるのだろうが、それでは曖昧すぎて、俺個別のものであるはずの感情が一気に平凡なものに変わってしまう気がする。「胸が締め付けられるようだった」などという紋切り型の表現もあるが、俺の感じでは締め付けられるというのとは少し違った。なんとなく胸の内側を熱いジェル状のかたまりがゆっくりと這っているような感じだった。だがこの表現も合っているかどうかよく分からない。

 

心理の動きを言葉にぴったりと当てはめることなどできない。それなら割り切って、心理など一切書かなければいい、少し前まで俺はそう思っていた。でもそれは割り切っているのでなく作者として楽をしているだけではいかと最近思い直した。うまく言葉にできないにしても、心の動きが身体の動きと同じく確かに実感として存在しているのであれば、それをなんとか言葉で表そうとするのが本当だという気がする。でも「悲しかった」や「胸が締め付けられるようだった」では駄目だ。個別の心理を現す言葉は個別の、具体的なものでなければおかしい。

 

こういうことを考えていると高校の数学で習った漸近線という概念を思い出す。y=1/xの曲線はどんどん伸ばしていくとx軸とy軸に限りなく近づいていくが決して接することはない。このときのx軸とy軸を漸近線というらしい。人間の心理の動きというのは、言葉という曲線では絶対に接することのできない漸近線だ。けれども心理との距離が限りなくゼロに近づけるように言葉の曲線を伸ばすことはできる。普遍的な作品は広い共感を呼ぶと言う。広い共感は「悲しかった」や「胸が締め付けられるようだった」などと簡単に書いてしまう小説からは決して生まれない。優れた小説家であれば言葉の曲線を漸近線の方向へ素早く伸ばすことができるのだろうが、俺はああでもないこうでもないと必死に頭の中のいろんな場所を覗き込みながらゆっくりゆっくり曲線を伸ばすことしかできないので遅筆になる。でもこういう遠回りが誠実な作品を書くための一番の近道だとこのところつくづく思う。なんだかこの記事の後半は「そんなの当たり前じゃないか」と言われそうなことを延々書いただけのような気もするが、こんな当たり前のことに気づくのに俺はすごく時間がかかった。

不条理であって不条理でない話

池澤夏樹個人編集の世界文学全集「短編コレクションⅡ」を読み進めている。小説を書くうえで大切な技法とかエッセンスのようなものはそれこそ数えきれないくらいあって、優れた長編はそれらを取捨選択し混ぜ合わせながら構築されていくのだろうけど、優れた短編の場合は、そういった技法とかエッセンスのうち作者が特に目玉として選んだものを虫眼鏡で拡大しながら読者に提示してくれる感じがする。この「短編コレクション」に収められている作品はどれも色合いが異なっていて、世界各国の一流シェフの料理を一皿ずつ味わうような贅沢な楽しみがあるわけだが、そんななか気になったのはフリードリヒ・デュレンマットの「犬」という作品。

 

構造としてはきれいに起承転結に分解できる。

【起】ある町にやってきた"ぼく"は、街角で聖書の文句を唱えるぼろ服の男を見かける。何度か彼に出くわすうちに、その足下には硫黄のような黄色い眼をした、恐ろしい漆黒の巨大な犬がいつもいることに気がつく。"ぼく"は次第にその男とお供の犬の奇妙なつながりが気になっていく。

【承】ある日、説教を終えた彼は"ぼく"のほうに近寄ってきて、家まで送ってほしいと頼んでくる。男の家には一人の娘がいた。すぐ眠ってしまった男の傍らで、娘は"ぼく"に説明する。父は富豪だったが人びとに真理を告げ知らせるために他の家族を捨てたこと。ある晩父が説教をしはじめると、この犬が突然家に入ってきたこと。そして彼女はこの犬をいつも怖がっているのだということ。「でも今度は事情が変わったわ。あなたがいらして下さったんだもの。これであの犬を笑ってやれるわ。」娘は"ぼく"がこの家にいつかやってくるとわかっていたと言う。「わたしと結婚式の夜を祝うためよ。わたしたちは男と女になって並んで横になるんだわ」こうして"ぼく"と娘は結ばれ、交際が始まる。

【転】ある日"ぼく"が自宅で薪をくべていると、娘が突然やってきて「あの犬を殺してちょうだい」と頼む。自分だけでなく父も本当は犬をいつも怖がっていたと分かったのだと娘は言う。父は犬を怖れてマットに寝たまま身動きできず、お祈りひとつできなくなってしまったのだと。"ぼく"は自宅の戸棚からピストルを取り出してあの家へ走るが、ひたすら前へ急いだので娘をあとに取り残してしまう。ひとりで男の家へ辿り着きドアを蹴破ると、ちょうどあの恐ろしい犬がガラスを飛び散らせ窓から消えるところだった。床には犬にずたずたに嚙み裂かれ、黒い血だまりのなかの白い肉塊となった男が横たわっていた。

【結】 "ぼく"は恐怖に震えながらも、途中ではぐれた娘を捜し回った。しかし彼女はどこを探しても見つからず、警官が捜索する犬もまったく姿を現さなかった。三日後、なにひとつ希望もなく疲れきった"ぼく"は部屋に帰った。下の通りに足音がしたので、何気なく窓の外の闇に身を乗り出してみた。通りの向こうの街路樹に添って、あの娘が静かに音も立てずに歩いて行った。その隣にはあの硫黄のような黄色い眼をした巨大な犬が並んでいた。

 

物語の大事な部分で、「なんでそうなるのか」が説明されないという特徴がある。

例えば娘は"ぼく"がいつか自分の家にやってくるとわかっていた、それは自分との結婚式を祝うためだと言う。いろんな疑問がわく。なぜ"ぼく"でなければいけないか?なぜ娘は分かっていたのか?なぜ結婚しなければならないのか?あまりに唐突すぎないか?しかしひとつも説明されないままに"ぼく"は娘と結ばれる。そして何と言ってもラスト。犬が本当に怖い、犬を殺してほしいと言っていた娘が、最後にはまたあの犬と一緒に並んで街を歩いている。自分の父を噛み殺した犬と一緒にだ。これも理由は明示されない。

 

話は少し変わるが、俺は説明する小説よりも描写する小説が好きだ。簡単には説明できないことを描くのが小説だと思うし、それに出来事と心理の因果関係なんて説明できるほど単純でない場合も多い。訳知り顔で登場人物の心理や言動の道筋を語れるほど作者は全能ではない。じゃあいっそ物事の因果関係を極端にすっとばしてしまえ!と吹っ切れると、主人公が朝起きると突然虫になっていたり、理由もなく足からかいわれ大根が自生してきたりする小説が生まれる。

 

しかしカフカらが発明した不条理という方法は、人間の実存をしっかりと見つめることなく表面上の形式だけを安易に真似ると、"なんでもあり"の悪臭を漂わせやすい。なんでもありは方法として難しいことではないから作家のやるべきことではない、と俺は思う。先人たちの発明を、自分のなんでもありの泥沼に強引に引っ張り込んではならない。そうしないためには、漫然と不条理な状況を描くのではなく、そこに何らかの新たなアプローチを付与する姿勢が不可欠だろう。そうやって文学の領域を、自分独自のやり方でわずかでも拡げようとしなければ作家ではない。その点、このデュレンマットの「犬」は不条理文学の新たなバリエーションを提示しているようにも見える(といってもこれも1940年代の作品なのだが)。

 

この作品では聖書の教えを説く父親の存在や、その教えを真理であると完璧に信じている娘の存在、つまり神にまつわる雰囲気が強力に作用し、不条理なことでさえ納得させられるような不思議な気流が出来上がっている。神の啓示や導きに理由はない。神を信じる者はその理由なき導きに従うより他にない。以下に引用する箇所は、この作品を読み解くにあたり特に示唆的である。

 

ーー「きみのお父さんが伝えているのが真理だと思うの?」とぼくはたずねた。「真理ですとも」と娘は言った。「真理だということはいつだって分かっていたわ、だから父についてこの地下室まで来ていっしょに住んでいるんだわ。でも真理を告げ知らせると、犬までやってきてしまうとは知らなかったわ」ーー

 

娘にも理由は分かってはいない。なぜ犬が来たのかも、なぜ"ぼく"が結婚相手としてやってくるのかも、なぜ父を殺した犬と離れることができないのかも。しかし彼女は理由を欲してなどいない。有無を言わさぬ神の導きによって、必ず"ぼく"がやってくることは分かっているし、絶対にその"ぼく"と結婚することになる。そして真理を告げ知らせたのだから犬が来たのであって、あれほど恐ろしい犬とまた一緒に暮らすようになるのも真理のなせる業、仕方のないことなのである。だからこれはもう不条理とさえ言えないのかもしれない。そもそも神と神を信じる者にとっては不条理なことなど何一つ存在しない。デュレンマットは不条理な物語を書きながら、最も理にかなった文学を作ったのだとも言える。

小説に立ち向かうための手がかり

2年以上、同じ小説を書いている。

ほぼ全体像はできてきてあとは細部の推敲という状態だが、原稿用紙換算で約300枚、多いように見えるかもしれないが2年かかってこれだけというのはもちろんプロの作家ではお話にならない枚数である。

小説を書いていると、気をつけていてもどこかで「小説的」な文章を書いてしまう。本当は小説的な文章なんてものはない、どんな文章でも許されるのが小説であるはずなのだが、自分が読んできた数々の小説たちの牽引力があまりに強いので、どこかでよろめいて、既視感のある型らしきものに脚を踏み入れてしまう。

フィクション、ストーリー、プロット、これらの言葉は多かれ少なかれ型を孕んでいる。俺は書きたいアイデアがあればスマホにメモをするけれども、書きたいこと全部を小説に盛り込もうとすれば、フィクションだとかストーリーだとかプロットといった型の磁石が持つ引力に、全部背を向けて全力で逃げなければならない。しかしその引力が効かないほど遠くへ走り去ってしまうと、もはや自分の書く物はただの思いつきの羅列か支離滅裂な断片の貼り合わせになり、一個の作品としての強度をすっかり失ってしまう。俺が好きな小説は、フィクションやストーリーやプロットという「小説的」な磁力が発生している場所で、その磁力に背を向けながら必死に踏ん張っているような作品だし、俺自身もいずれはそういう小説を書ける人間になりたいと思っている。

そうやって磁場のなかで踏ん張る以上は、書きたいことであってもこの作品のなかにはちょっと盛り込めないなという要素がどうしてもこぼれ落ちてくるもので、それじゃあそれは次の作品で、となっても俺の場合は2年以上もひとつの作品だけを書いていてなんとなくそれが完成するまでは別の作品に移りたくないから、こぼれ落ちた書きたいことをいつになったら書けるのかという問題が出てくる。だいたい2年も経ったら書きたいことも別に書きたくなくなっている場合がほとんどではないか。それではあまりにもったいないということで、このたびブログを新たに始めることにした。ツイッターもやっているがツイッターは140字というこれまた強力な型のある媒体なので、手軽さは好きだがちょっと長めの文章を書きたいときにはあの字数制限が苦痛だ。

もっとも俺はいままでいくつかのブログをやってきてことごとく自然消滅させてしまったのが自分でも情けないのだが、最初から断っておくと、このブログははなから頻繁に更新しようとは思っていないし他の人が読んでおもしろい!となるような文章にしようと心がけることもない。だってこれは小説執筆の最中にこぼれ落ちた要素を型に嵌めぬままにだらだらと書くことを目指すから。自分の書きたいことをただ単純に素直に書いていきたいだけの気分であるから。そして何より、思い切り「小説的」でない文章を書く行為にこそ、他ならぬ小説に立ち向かうための手がかりが落ちているにちがいないと考えるから。