読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

也田貴彦blog

おもに文学やお笑いについて。

不条理であって不条理でない話

池澤夏樹個人編集の世界文学全集「短編コレクションⅡ」を読み進めている。小説を書くうえで大切な技法とかエッセンスのようなものはそれこそ数えきれないくらいあって、優れた長編はそれらを取捨選択し混ぜ合わせながら構築されていくのだろうけど、優れた短編の場合は、そういった技法とかエッセンスのうち作者が特に目玉として選んだものを虫眼鏡で拡大しながら読者に提示してくれる感じがする。この「短編コレクション」に収められている作品はどれも色合いが異なっていて、世界各国の一流シェフの料理を一皿ずつ味わうような贅沢な楽しみがあるわけだが、そんななか気になったのはフリードリヒ・デュレンマットの「犬」という作品。

 

構造としてはきれいに起承転結に分解できる。

【起】ある町にやってきた"ぼく"は、街角で聖書の文句を唱えるぼろ服の男を見かける。何度か彼に出くわすうちに、その足下には硫黄のような黄色い眼をした、恐ろしい漆黒の巨大な犬がいつもいることに気がつく。"ぼく"は次第にその男とお供の犬の奇妙なつながりが気になっていく。

【承】ある日、説教を終えた彼は"ぼく"のほうに近寄ってきて、家まで送ってほしいと頼んでくる。男の家には一人の娘がいた。すぐ眠ってしまった男の傍らで、娘は"ぼく"に説明する。父は富豪だったが人びとに真理を告げ知らせるために他の家族を捨てたこと。ある晩父が説教をしはじめると、この犬が突然家に入ってきたこと。そして彼女はこの犬をいつも怖がっているのだということ。「でも今度は事情が変わったわ。あなたがいらして下さったんだもの。これであの犬を笑ってやれるわ。」娘は"ぼく"がこの家にいつかやってくるとわかっていたと言う。「わたしと結婚式の夜を祝うためよ。わたしたちは男と女になって並んで横になるんだわ」こうして"ぼく"と娘は結ばれ、交際が始まる。

【転】ある日"ぼく"が自宅で薪をくべていると、娘が突然やってきて「あの犬を殺してちょうだい」と頼む。自分だけでなく父も本当は犬をいつも怖がっていたと分かったのだと娘は言う。父は犬を怖れてマットに寝たまま身動きできず、お祈りひとつできなくなってしまったのだと。"ぼく"は自宅の戸棚からピストルを取り出してあの家へ走るが、ひたすら前へ急いだので娘をあとに取り残してしまう。ひとりで男の家へ辿り着きドアを蹴破ると、ちょうどあの恐ろしい犬がガラスを飛び散らせ窓から消えるところだった。床には犬にずたずたに嚙み裂かれ、黒い血だまりのなかの白い肉塊となった男が横たわっていた。

【結】 "ぼく"は恐怖に震えながらも、途中ではぐれた娘を捜し回った。しかし彼女はどこを探しても見つからず、警官が捜索する犬もまったく姿を現さなかった。三日後、なにひとつ希望もなく疲れきった"ぼく"は部屋に帰った。下の通りに足音がしたので、何気なく窓の外の闇に身を乗り出してみた。通りの向こうの街路樹に添って、あの娘が静かに音も立てずに歩いて行った。その隣にはあの硫黄のような黄色い眼をした巨大な犬が並んでいた。

 

物語の大事な部分で、「なんでそうなるのか」が説明されないという特徴がある。

例えば娘は"ぼく"がいつか自分の家にやってくるとわかっていた、それは自分との結婚式を祝うためだと言う。いろんな疑問がわく。なぜ"ぼく"でなければいけないか?なぜ娘は分かっていたのか?なぜ結婚しなければならないのか?あまりに唐突すぎないか?しかしひとつも説明されないままに"ぼく"は娘と結ばれる。そして何と言ってもラスト。犬が本当に怖い、犬を殺してほしいと言っていた娘が、最後にはまたあの犬と一緒に並んで街を歩いている。自分の父を噛み殺した犬と一緒にだ。これも理由は明示されない。

 

話は少し変わるが、俺は説明する小説よりも描写する小説が好きだ。簡単には説明できないことを描くのが小説だと思うし、それに出来事と心理の因果関係なんて説明できるほど単純でない場合も多い。訳知り顔で登場人物の心理や言動の道筋を語れるほど作者は全能ではない。じゃあいっそ物事の因果関係を極端にすっとばしてしまえ!と吹っ切れると、主人公が朝起きると突然虫になっていたり、理由もなく足からかいわれ大根が自生してきたりする小説が生まれる。

 

しかしカフカらが発明した不条理という方法は、人間の実存をしっかりと見つめることなく表面上の形式だけを安易に真似ると、"なんでもあり"の悪臭を漂わせやすい。なんでもありは方法として難しいことではないから作家のやるべきことではない、と俺は思う。先人たちの発明を、自分のなんでもありの泥沼に強引に引っ張り込んではならない。そうしないためには、漫然と不条理な状況を描くのではなく、そこに何らかの新たなアプローチを付与する姿勢が不可欠だろう。そうやって文学の領域を、自分独自のやり方でわずかでも拡げようとしなければ作家ではない。その点、このデュレンマットの「犬」は不条理文学の新たなバリエーションを提示しているようにも見える(といってもこれも1940年代の作品なのだが)。

 

この作品では聖書の教えを説く父親の存在や、その教えを真理であると完璧に信じている娘の存在、つまり神にまつわる雰囲気が強力に作用し、不条理なことでさえ納得させられるような不思議な気流が出来上がっている。神の啓示や導きに理由はない。神を信じる者はその理由なき導きに従うより他にない。以下に引用する箇所は、この作品を読み解くにあたり特に示唆的である。

 

ーー「きみのお父さんが伝えているのが真理だと思うの?」とぼくはたずねた。「真理ですとも」と娘は言った。「真理だということはいつだって分かっていたわ、だから父についてこの地下室まで来ていっしょに住んでいるんだわ。でも真理を告げ知らせると、犬までやってきてしまうとは知らなかったわ」ーー

 

娘にも理由は分かってはいない。なぜ犬が来たのかも、なぜ"ぼく"が結婚相手としてやってくるのかも、なぜ父を殺した犬と離れることができないのかも。しかし彼女は理由を欲してなどいない。有無を言わさぬ神の導きによって、必ず"ぼく"がやってくることは分かっているし、絶対にその"ぼく"と結婚することになる。そして真理を告げ知らせたのだから犬が来たのであって、あれほど恐ろしい犬とまた一緒に暮らすようになるのも真理のなせる業、仕方のないことなのである。だからこれはもう不条理とさえ言えないのかもしれない。そもそも神と神を信じる者にとっては不条理なことなど何一つ存在しない。デュレンマットは不条理な物語を書きながら、最も理にかなった文学を作ったのだとも言える。