也田貴彦blog

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オールタイム漫才ネタベスト10 ⑨ガスマスクガール「走馬灯」

コントと漫才の違いとはなんだろう。

動きの少ないのが漫才??衣装を着るのがコント??いろいろな考え方があると思う。僕がなんとなく思っている区別の仕方はこうだ。漫才とはセンターマイクの前に立った素(す)の芸人が主役になる表現形態であり、コントとは芸人によって演じられる登場人物が主役になる表現形態である。噛み砕いて言えば、漫才は『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、別人を演じることなく本人自身としてしゃべることで何かを表現するネタ』、コントは『芸人たちが別人を演じることで何かを表現するネタ』…ということ。

ところが周知の通り、いまの若手漫才師たちのネタを見渡してみると、漫才にコントの形式を用いるネタがなんと多いことか。例えば2007年のM-1で優勝したサンドウィッチマンのピザ屋のネタ。二人はさっさと店員と客というコントの設定に入る。これはセンターマイクをどけて店員の制服と客のラフな服装に着替えてしまえば、キングオブコントでも何の問題もなく披露できるタイプのネタだ。つまりセンターマイクの前で演じるコントなのである。これに対し、コントに入ることなく純粋に本人たち自身のしゃべくりで勝負する漫才師(チュートリアルブラックマヨネーズ海原やすよともこ囲碁将棋、銀シャリ、学天即、・・・)は、きっと漫才とコントを峻別したいというこだわりをもってネタ作りをしているはずなのだ。

しかし僕はここで自分に疑念を感じる。サンドウィッチマンの漫才を、コント形式の漫才だからと言って否定することなどできるだろうか? 事実、サンドウィッチマンのネタはめちゃくちゃ面白い。純粋なしゃべくりにこだわるあまり、本当に面白いネタを切り捨ててしまうようなことになれば、本末転倒だ。原則論は原則論として、漫才を楽しみ愛するうえではもっと別の視座が必要なのではないか。 

そこで僕は冒頭に言った内容を修正しようと思う。『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、別人を演じることなく本人自身としてしゃべることで何かを表現するネタ』、これを”狭義の”漫才と言い直すことにする。一方、もっと自由度を高めて『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、どんな形式であれしゃべることで何かを表現するネタ』。これを”広義の”漫才としよう。当然、面白い漫才は狭義にも広義にも存在する。というか面白いかどうかに狭義か広義かは関係ない。

 

ずいぶん前置きが長くなってしまったが、今回のガスマスクガールのネタの話だ。このネタを見て、これは漫才といえるのか? コントではないのか? コントですらなく演劇なのではないか? などなど、訝る人は多いだろう。僕自身もこのネタのジャンルについては迷うところがあった。しかし結果的には、上のように”広義の”漫才を肯定することによって、順接的にこの走馬灯のネタを紛れもない漫才であるとみなし擁護しようと思うに至ったのだ。

お笑いに限らず、文学であれ音楽であれ映画であれ、表現の世界にはジャンルの議論がつきまとう。芥川賞直木賞はどう違うのか…純文学と大衆文学はひょっとするとどの雑誌に掲載されるかで決まる程度の区別ではないのか…ロックとパンクはどう違うのか…TSUTAYAの棚の名称付けにも腑に落ちないものが多い…。境界はえてしてファジーだ。必然的に、ジャンルとジャンルの境目にあるような作品、容易なジャンル分けを拒むような作品が生まれるわけだが、間違いなく言えるのは、そういった作品こそ様式や類型の狭苦しい壁を押し広げるための可能性や個性をはらんでいるということだ。これは漫才なのか、コントなのか、演劇なのか…そんな迷いを感じさせるネタこそ、”広義の”漫才の一番端っこ、ジャンルの国境線上に陣取る漫才であり、漫才の領土拡大を狙う果敢な意志をもったネタだと思うのだ。

「優れた漫才のネタはどれか」を考える作業は、つまるところ「漫才とは何か」を考える営みに直結する。ガスマスクガールの『最も漫才らしからぬ漫才ネタ』を言祝ぎつつ、そんなことを考える。