也田貴彦blog

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「東京プリズン」感想 〜不満と感服〜

赤坂真理の東京プリズンを読んだ。

 

主人公のマリは不思議な世界に迷い込んでいる。過去や未来の自分と電話が繋がったり、急に時空の異なる場所を歩いていたり、ヘラジカの声が不意に聞こえたり、太古の昔の天皇である大君と関わりを持ったりする。このスピリチュアルな体験の連続ともいえる運びをすんなり受け入れられるかどうかが、作品を楽しめるかどうかに大きく関わってくる。

 

アメリカの高校に通うマリは、友人たちと猟に行ってヘラジカを殺しその肉を食べる。道でナンパしてきた男についていくと怪しげなバーで強姦未遂にあう。そして進級をかけたディベートで「天皇の戦争責任」について論じなければならなくなる(これが物語の肝となる)。こういった試練や日米の文化の違いにぶつかりつつ、「日本とは」「東京裁判とは」「天皇とは」と考えるうちに、マリはそこかしこで幻聴や幻視を体験する。天皇英霊、あるいは東京裁判の速記を行っていた母と、夢想のなかで出会い、言葉を交わし、濃密に心を通わせ、さらには相手と一体になる。時にはそれらの霊的な声をそのまま身体から口へ通して話す”翻訳者”ともなる。

 

天皇の戦争責任」というテーマについて最終弁論の場に立たなければならないマリのために、幻聴や幻視という仕掛けを用意し、時空を超越して日本人の精神史を大きく体感させようとした作者の意図はよく分かる。しかしその方法はあまりにファンタジー的で、無理があると思った。マリは幻視や幻聴をとにかくしょっちゅう経験するが、現実世界との接続部分が残念ながら荒くて、滑らかに繋がらず、感情移入ができなかった。思うに、主人公がこれほどまでに頻繁に幻聴や幻視を体験するのであれば、主人公が追いつめられ切実な問題に直面し、それ相応に精神のバランスを欠いていなければ納得できない。その雰囲気づくりがこの作品でしっかりなされていたかとなると、大いに疑問である。マリは前半から、けっこう簡単に、過去の自分や架空の母と電話で会話ができる不思議を経験している。これでは「ひどく夢想家な女の子だな」くらいにしか思えない。

 

百歩譲って、過去の自分や母と空想のうちに心を通わせあう部分は、自分であったり家族であったり個人的な思い入れがあるはずなので、まだ分かるとしよう。しかしどうしても解せないのは、天皇(大君)や英霊とも簡単に通じあえすぎている点だ。母親が東京裁判で速記をしていたという背景はあるにしても、そもそも東京裁判や戦争については知識に乏しく、天皇の戦争責任について少し勉強しただけというマリが、天皇英霊に思いきり感情移入して涙を流したり、あまつさえ彼らと夢想の中で会話をしたり、一体化できたりなどするようになるだろうか?

 

例えば遠藤周作は「沈黙」という作品で、過酷な状況に追いつめられた人間を前にしてなおも姿を見せず救いの手をいっこうに差し伸べない神の”沈黙”をテーマに信仰の奥深さを描いてみせた。大前提として、人間に神の声は聞こえず、神の姿も見えないはずだ。だからこそ祈りがあり、信仰の葛藤がある。もちろん西洋社会の「神」と日本の「天皇」の概念は大きく異なるものの、例えば戦争中極限状態にあった日本兵たちにとって、天皇は「現人神」であり、少なからず心の拠り所だったのではないだろうか。この作品中にも、終戦直後の天皇のいわゆる「人間宣言」(≒天皇が己の神格を否定したとされる詔書)に失望した英霊たちが登場する。つまり彼らにとって天皇は人間ではない何か、神に近い何かだった。そんな彼らに天皇の声は聞こえただろうか?戦争の前線で倒れゆくさなか、天皇は心の奥底で語りかけてくれただろうか?ここで「きっと聞こえた、きっと語りかけてくれた」と断言できるのはよほど幼稚で不遜な者だけだろう。そう、極限状態にある者にさえ、神は、霊は、天皇は、語りかけないし、救いの手を差し伸べない。作家はそこから始めなければならないのではないか。一高校生のマリに天皇の声を乗り移らせたり、英霊たちと心を通いあわせたりするというのは、あまりに乱暴であると思う。

 

いろいろ書いたが、つまりマリの幻視や幻聴のような不思議体験が、クライマックスである最終弁論をドラマチックに見せるために強引に設えられた装置以上のものに思えないのである。当たり前だが太平洋戦争は実際に起こった出来事だ。「天皇の戦争責任」も、日本人の精神に根ざした複雑で現実的なテーマだ。リアルで切実な問題を、あまりにファンタジーな方法を使って考察していくことに僕は抵抗があった。またその幻聴や幻視の世界で、ふいにマリが啓示を得たように真理らしきものを悟ったり、禅問答のような受け答えをすんなりと進めていったりする不自然さも大いに気になる。これは作者がどうしても盛り込んでおきたい要素であるがために、物語の自然な流れを歪めてまでそれを組み入れてしまうせいで起こる事態だと思う。さらに言えば、マリの語り口もどこか夢見がちで悦に入っており、読者の共感をないがしろにしている感じが最後まで拭えなかった。さらにさらに言えば、そもそも幻視や幻聴、夢の世界での彷徨という場面設定は、小説で取り入れられた場合「なんでもあり」感が強くなって、僕個人としては雑駁な印象を受け読む気力が削がれることが多い。

 

…と、ここまで偉そうに批判的なことばかり書いて来た僕だが、こういった不満は、あくまで作家の「方法」に向けられたものである。では器ではなく中身に関して、結局この本を読んでどう感じたのか。その問いへの答えは、全く逆のことを言うようだが、「すごい小説だ」ということになる。むしろ「小説を超えた何かだ」とさえ思った。

 

天皇の戦争責任を巡る議論を通じて日本人の精神史というマクロなテーマを描きつつ、マリと母親との関係というミクロな家族単位の歴史も描いたという、この構えの大きさと緻密さには感服した。マリが英語と日本語の文法の違いに触れて感じた言語についての考察や、「I」という単語についての思い入れなど、鋭い表現も散見され、何度もページの端を折った。クライマックスの、キリストと天皇はどう違うのか、なぜあなたはキリストだけを救いの扉だと考えるのかとマリがスペンサー先生に問い詰める場面の、二人の丁々発止のやりあいは、日本人とアメリカ人の精神の一番デリケートな部分をむき出しにしてぶつかり合っているようで、非常にスリリングで面白い。

 

ディベート天皇や日本の制度について語る部分は小説だといえるのか、むしろ分析や評論の器として小説が利用されているだけでは、と言いたい向きもあるだろうが、優れた芸術作品は、ときにジャンルを越境してしまうものだ。だからこそこの作品は、小説を超えた何かであるがために真の小説である、ともいえる。戦中・戦後の日本がひた隠しにしてきた要素に真正面から向き合い、日本という国とマリという個人の物語を二重に絡めあわせた、こんな意欲的な作品は読んだことがない。

 

強引でファンタスティックな構成や感傷的な文体に僕がいくら不満を持っているとは言え、作者はかつてないことに挑戦しているのだから、方法がすんなりいかないのは当たり前と言えば当たり前だ。結局この作品を読んで僕はおおいに刺激を受けたし、他に類を見ない作品だと驚き、読書の楽しみを享受した。それはこの記事の大半を作者の方法に対する批判に費やしてしまったこととは全く関係ない。唯一無二の作品を書くことに挑戦するその姿勢、そして実際に唯一無二の作品たらしめた作者の腕力を言祝ぎたい。