読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

也田貴彦blog

おもに文学やお笑いについて。

「シルビアのいる街で」(ホセ・ルイス・ゲリン監督)感想

まずストラスブールという街があり、そこに暮らす人々があり、そのなかに主人公の男女が存在している。監督はその全体の広がりを表現する。誰とも分からぬ市井の人物の表情の変化、路地の歩き方、髪の揺れを繰り返し映し出し、ときには主人公の男の目を通してそれを見守る。この静かではあるが確固たる姿勢はカメラワークにも顕われている。例えばFIXカメラで路地を撮っているところに、物語の焦点となる女と、彼女を尾行する男がフレームインしてくる。画面上の路地を歩き抜けて間もなく二人はフレームアウトする。普通の映画なら、ここで二人の動きに従ってカメラを動かすか画面をスイッチングするだろう。しかし二人がいなくなったあとも同じ路地が、しばらく画面に映ったままになる。この一見不自然とも思える余韻が、実は人物の都合に左右されない極めて自然な風景の切り取り方によるものであり、街というものの奥行き、物語、歴史のイメージの層を否応なく心に積もらせる。この「頑固な鷹揚さ」とでも言うべき間の取り方がすごく心地よかった。

 

主人公の男を画家志望に設定したのは上手い。カフェで女性の顔のデッサンを描く男の視点にカメラを据えることで、いろいろな女性の表情を、自然に、じっくりと映像に収めることができる。男は過去に愛したシルビアと思われる女性をたまたま見つけ追跡するが、さんざんつきまとった挙げ句、結局人違いだと告げられてしまう。次の日、男は路面電車の停留所に座りまた様々な女性の顔を眺めるが、昨日の出来事を経ているため眼差しの意味合いは変わっている。シルビアの面影をあまたの女性の顔のなかに無意識に探してしまい、赤の他人の後ろ髪が、サングラスが、路面電車のステップを踏む足取りが、もはやただの赤の他人のものではなくなる。静かに混乱し目の前を走りすぎる路面電車の窓にもシルビアの幻影を見てしまう。いろいろな女性の顔をデッサンした手帳のページが風でめくれ、市井の「彼女たち」がシルビアと混ざりあう。

 

画面に映る様々な女性たちの表情も濃淡に富んでいた。カフェに座って陽気に笑っていた女性が、そのすぐあとにはなぜか暗い表情に変わっている。それまで深刻そうな顔だった女性は、同じテーブルの男に「それは違う。でも考えておくよ」と言われると少しだけ微笑みを漏らす。男にシルビアだと勘違いされていた女性も、路面電車での会話のなかでどういうわけか思い詰めたような表情に変わる瞬間がある。それらの理由を映画は全く説明しないが、説明されないがゆえに想像力が刺激され、結果的には観る側から彼女らに何物かを背負わせることで人物を立体的に彩ることになる。街の風景と雑音の中に、多数の人間の生の機微を浮かび上がらせるという、まさに映像でしかできないことをこの監督はやっている。