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也田貴彦blog

おもに文学やお笑いについて。

チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』感想

岡田利規主宰のチェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』をBSプレミアムで観た。これまで岡田氏の芝居は観たことがなかったが、小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(大江健三郎賞受賞作品)は以前友人から文庫本をもらって読んだ。現代の若者の生活や気分を、すごく新鮮なかたちで切り取って生のまま食べさせてくれるような印象があり、これは舞台作品もぜひ観てみたい!と気になっていたのだった。

 

『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』はコンビニを舞台にした作品である。登場人物はコンビニの店員、店長、スーパーバイザー、そして客。ただしこれらの設定はあくまで枠にすぎず、肝心なのはその枠の中に詰め込まれたいくつもの企みだった。こういう演劇の方法もあるのか、と俺は戦慄した。頬を強く張られるような、というよりは、怪しげな薬品を注射されだんだんと覚醒してきて身体が熱くなり居ても立ってもいられなくなるような、そういう種類の衝撃があった。小説を読んだときもおもしろいと感じたが、やはり芝居の人だ。初めて観た岡田氏の舞台は陰湿でありながらぎらぎらとしていた。

 

まず登場人物の台詞。現代の若者が使いそうな言葉回しであり会話であるが、それだけでは説明が不十分だ。岡田氏は書き言葉ではない"話し言葉"というものを強く強く意識している。話し言葉特有のまだるっこしさ、たとえば詰まり(「あのー」「ええと」「うん」「ええ」など)だとか、反復(「なんか変じゃないですか、えー、変じゃないですかなんかそれ」など)といった要素を、台詞から排除することなくそのまま芝居に組み込んでいる。いや、そのままというより、岡田氏はむしろそこをかなり強調している。それゆえに台詞は反復や詰まりの頻発する、意図的な冗長さを備えた、地に足のついていない節回しになる。

 

例えば中盤、新米店員がレジのバーコードリーダーで商品のバーコードを読み取ろうとするのにうまく読み取れない、という苦労を観客に向けて語る場面があるのだが、その台詞を抜き出してみる。

 

「あのー、ピッ、て、バーコードを読み取る機械。ピッ、ていうバーコードにかざす、機械。レジの機械にコードでくっついてるやつがあるじゃないですか。あれバーコードリーダーっていうんですけど。時々あれが、バーコードを何度もこう、やってるのに、全然バーコードを読み取らない、ピッ、て言ってくれないってときが、あるじゃないですか。あのバーコードリーダーって機械から赤い光線がすーーって出てるじゃないですか。あの、赤い光線を、バーコードのところにちゃんと、あててるつもりなんですよ、つもりっていうかすーごいちゃんと、あててるんですけど、それなのに全然、何度、一生懸命やってもピッて、言ってくれないんだけどっていうときが、まれに、あるじゃないですか。で、あまりに読み取らないと私も微妙に、焦ってくるんですよね。で、私がこう、やってるのを、目の前で待ってるお客さん、ていうのもいるじゃないですか。お客さん今のところおとなしく黙って、立って、待ってるんですけどでも内心でこの人は今、おいそこの店員おいなにやってるんだよとれーんだよとっとと早く、読み取らせろよーとか、思ってる可能性ってあるよなー、って、思うじゃないですか。てきぱきするために機械化してんのにかえって手間取ってたら意味ねえだろって、思ってるかもしれないなーって、思うんですよねー。ていうかそれすんごい私もそう思うし、で、そんなこんなで、焦るじゃないですか。でも、いくら焦っても、読み取ってくれないものはやっぱり、読み取ってくれないじゃないですか。たとえばそのー、読み取ってくれない物がアイス、とかだったりすると、バーコードが書いてあるところにこう、霜が、かかってることとか、でああその、霜のせいで読み取らないのかなーとか思ってこう、指で、霜拭いたりするじゃないですか。でも拭いてもやっぱり読み取らないよっていうケースがほとんどなんですけど、まあ、そういうときはだから最後は、あきらめて、バーコードの下に書いてある数字、こう手打ちで、入力するっていうことに、なるんですけどねだいたい。」

 

これを黙読する場合、たぶん1分もかからずに読めてしまう。しかし役者はこれを3分30秒ほどかけてゆっくりゆっくりと、詰まりながら、ときに半笑いで語る。どうでもいいような、そしてなかなか前に進まないような内容を、ひとりで延々とだらだら喋られるのだから、観客としては苛々するはずである。ところが俺はこのシーンがすごく面白かった。この執拗さとどうでもよさと気怠さを混ぜてとろ火で温めるような台詞回しは実に新鮮だった。集中して聞いていると、乗り物酔いをしかけているときに後頭部のあたりや肋骨の内側が、ぐるぐるとゆっくり回りだす、そんな妙な感覚にさえ陥る。そしてそういう台詞は当然、いわゆる「演劇的台詞」らしいものからかなり離れたところにある。フィクションはフィクションっぽくあればあるほど、作り物っぽくあればあるほど、現実の人間の世界とは関係がなくなり、見る者の精神や生き方に揺さぶりをかけることが難しくなるものだ。しかしその点この作品は”台詞っぽい台詞”をかなぐり捨てることでフィクションの弱さから見事に脱却している。演劇という箱を内側から壊してしまう。箱を力任せに蹴破って派手に飛び出すというのではなく、硫酸かなにかをとぽとぽと垂らして徐々に箱に穴をあけ、屈んだ状態で陰湿にもぞもぞと這い出してくる。

 

次に登場人物たちの身体表現。これはなかなか文章では書き表しづらく、とにかく観てもらうしかないのだが、各人物は主に喋っている間じゅう弛緩したダンスともいえる動きを見せる。動作は場面ごとに変わり、ときに実際の行動と連動する(お釣りを渡す動作、バーコードリーダーをバーコードに当てる動作など)ことや、台詞や心情と連動する(罪悪感にさいなまれているときにアイスで頭を叩く、うんこをしたいときにお尻が痙攣するなど)こともあるが、たいてい無意味なものなっている。そしてこの緩やかでうねうねとした無意味な身体表現は、上に述べたような頼りなくぐらついた台詞たちと見事に調和する。実際、堂々巡りするような台詞のときは動きも規則的にだらだらと繰り返されたりもする。

 

俺はこの動きを見ながら、チェルフィッチュの役者たちは人間の言葉と動作の結びつきがいかに脆いものであるかを暴いているのだと感じた。思うに、言葉と動作の連動性というのは習慣により判断されるのではないか。「そうか!」と言って掌を打ち鳴らしたり、「おまえ!」と言って指を差したりする、これらの動作は、たまたま多くの人間たちの習慣により「そうか!」や「おまえ!」という言葉に連結され固定化された紋切り型に過ぎない。そこに絶対性などない。親指と人差し指で丸をつくる”OKサイン”が、尻の穴を意味する国だってあるのだ。つまり特定の言葉を表現する動きには本来もっともっと広がりがあるはずで、チェルフィッチュの役者たちはまさにその広がりの一端を示しているのである。各人の動きは台詞の直接的な意味を超え、心象(イメージ)を捉えようと手を伸ばし、戯れる。そうすることで自らの存在を解体し、増幅させ、丁寧に組み立て直す。「役者は台詞をうまく言うことなんかよりも、”そこに在る”ことの強さを大事にしなければならない」、岡田氏のこの信念を、役者たちの身体表現は忠実に実践している。

 

そして特に今回の作品に特有の企みであったと思われるのは、音楽である。開演から閉演までバッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻・全48楽章がずっと流れている。ただのBGMなどと切り捨ててうっちゃっておけるようなやわな存在感ではない。岡田氏はインタビューで「バッハの音楽という格式の高いものと、コンビニという現代の我々の"しょぼい"生活を組み合わせたときに、何かが起こるのではないかと思った」と語っている。確かにコンビニで起こる出来事はいわゆる劇的なものではない。苦悩することと言えばバーコードリーダーがバーコードをなかなか読み取らないこと。事件といえば客がクレームを言いにくること、上司からパワハラを受けること。テロリズムといえば商品購入者の性別をデータとして入力する際にわざとでたらめに入力すること。我々の日常の仕事や生活は小さく、しょぼい。そこにバッハの平均律クラヴィーア曲集の、チェンバロの音色が絶えずまとわりつく。この違和感は強烈だ。しかしそれでいて、コンビニという場面設定に対するなんとも不思議な親和性も感じられるのである。オーケストラだと大仰すぎる。ロックだと当たり前すぎる。硬く跳ねるようなチェンバロで奏でられ、長調と短調がちょうど半分ずつ入った、暗いのか明るいのか分からないようなこの曲集はまさにちょうどいい!

 

そしてバッハの音楽に、登場人物たちのあのまだるっこしい台詞と、うねうねとした身体表現が絡み合う。音楽、台詞、動き、これらの相互作用によって舞台はなんとなく非現実的な様相を帯びる。コンビニは地面から浮かび上がり上空でゆらゆらとたゆたう。観客たちは本来なら自分もそこに含まれているはずの現実的な小さな出来事を、まるで雲の動きか白昼夢でも眺めるように、顔を上向け口をぽかんと開けながら眺める事になる。

 

そして全48楽章の合間合間、曲同士の繋ぎのためにほんの5秒ほど無音になる瞬間に、ふと我に返る。この作品で表現されているのは、紛れもなく自分たちそのものである。頼りなく旋回する台詞、支柱を失ったような身体表現、暗みと軽みの共存する均整の取れた音楽。それらは全て、頼りなく、支柱を失い、暗さと軽さをないまぜにしながらなんとか精神の均衡を保とうとする我々の生活そのものの写し絵なのである。訳の分からない身体の動きとだらだらした台詞の異様さに笑いさえ漏らしていた観客は、それがすなわち自分たちの異様さに他ならないと気づき、もはや笑っている場合ではないと絶句する、あるいは逆にもうこれは笑うしかないなと吹っ切れて笑い続ける。俺はどちらかというと後者だった。ただし、これだけ革新的なアプローチをいくつも試しながら、なおかつ現代人の姿を的確に捉えることに成功している岡田氏の才能に対する嫉妬は、笑い声と一緒に身体の外へ飛び出てしまってはくれなかったが。