也田貴彦blog

おもに文学やお笑いについて。

オールタイム漫才ネタベスト10 ②チュートリアル「冷蔵庫」

これは不条理漫才と言ってしまってよいと思う。
不条理とは何か。カフカの小説「変身」を例に挙げよう。主人公はある朝突然虫に変わる。理由は分からない。最後まで分からない。理屈にも常識にも合わない。だからこそ主人公は苦悩し、現実に抗おうともがく。これが不条理である。
原理はこの漫才でも同じだ。徳井は冷蔵庫のことで興奮しだす。理由は分からない。最後まで分からない。だからこそ福田は困惑し、徳井という不条理な現実になんとか対処しようと奮闘する。このネタに限らず、漫才の徳井のキャラクターは大雑把に「変人」とか「変態」と呼ばれるが、もう少し狭めて言うなら、徳井は「不条理な変人」なのである。ポイントとなるのは「理由が分からない」ことだ。もし徳井が自らの興奮について「冷蔵庫のこういうところが好きだから」などと合理的に説明してしまうと、不条理性が失われ、福田と徳井のディスコミュニケーションの面白みは強度を失ってしまうだろう。

不条理コントはよくあるが不条理漫才というのは珍しい。コントは寸"劇"であるため設定が存在し、出演者は当然、別人格を演じる。観る者はあらかじめそれに合意しているので、極端におかしなことを言っていたりやっていたりしても何の疑問も感じずに見ていられる。しかし一方の漫才は、センターマイクの前に立つ生身の人間二人のしゃべくりである。あまりにも突拍子のないことをやりだすと存在がぶれてしまい――ダイアンの「サンタクロースを知らない」というネタに少々無理があったように――観る者の首を傾げさせてしまう場合がある。多くの漫才師はそれを防ぐため「おれ美容師やるから、おまえお客さんやって」というように、さっさとコントの設定に引きずりこもうとしたがる。

つまり漫才とは本来、不条理な人物を演じにくい表現形態のはずなのである。しかし徳井はそのハードルを難なく飛び越えてしまう。チュートリアルの徳井として登場し、最後までチュートリアルの徳井としてセンターマイクのまえに立っている。コントに入っているわけではない。だが我々は彼の"不条理な変人"性を実に自然に受け入れることができる。それはひとえに、彼のキャラクターのクレッシェンドのかけ方が抜群にうまいからだ。普通の人間として登場した徳井から、4分後の完全に頭のおかしい徳井まで、見事に地続きで繋がっていく。この昂揚感さえ伴う盛り上げのテクニックは、例えばはなから変な人物として出てくるオードリー・春日のネタで見ることはできない(オードリーを面白くないと言っているわけでは断じてない)。

 

「大名の冷蔵庫やないか」「オーナー」「山が動いたな」などの練られたフレーズもしっかり効いている。正直に言って文句のつけようがない。2006年のM-1でこのネタを目の当たりにしたとき、僕は漫才におけるモダニズムの花が絢爛に咲き誇るのを見る思いがしたものだ。

 

↓実際の漫才はこちら

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オールタイム漫才ネタベスト10 ①麒麟「小説風漫才」

復活したM-1グランプリ勝戦が今週末にあるということで漫才熱が高まってきて、無性に漫才のオールタイムベスト10を決めたくなった。

ただし順位はつけない。今回のタイトルも①と書いているが別に1位というわけではない。10作を決めるだけでも難しいのに、さらに順位をつけるなんてことは到底できない。

 

まず最初は、迷わず選んだ麒麟の「小説風漫才」。僕はこのネタをきっかけに漫才が好きになったと言っても言い過ぎでない。

2001年第1回のM-1グランプリでも披露された、野心的な構成をもったネタである。あたまからネタを見ていくと、大して力のない小ボケ、田村の長々とした一人芝居。前半では多くの人が「これは面白くないネタだな」と思うはずである。しかし中盤、川島の「小説を読んだら意外と面白くて夢中になったりする」「この漫才にも小説の要素を取り入れたらもっと漫才が分かりやすくなると思う」という合図を機に、漫才は大きく動き出す。前半部分で見せていた二人の身振りや発言に、小説的な川島の独白・解説が加えられることで、全く別の意味が付与されるのである。

ある場面で張った伏線をのちのち明るみに出して驚かせるという手法は映画や文学、漫画などでもよく使われるが、漫才ネタでここまで意識的に組み込んだものは、当時中学2年生だった僕は初めて見た。前半2分を完全にフリとして使っており、あえて笑いを捨てている。この試みは、4分しかないネタにおいては蛮勇といえる。そして後半の田村を"えのき小僧"に見立てて川島がアテレコをする部分は出色の面白さである。アテレコを効果的に使ったネタとしては、底ぬけAIR-LINEの「あてぶりショー」(二人がある場面を演じるが、実は二人の動きは全く関係ない歌謡曲の歌詞のとおりの動きになっており、その曲を流しながら種明かしをするというネタ)が思い浮かぶ。しかし「あてぶりショー」はそもそもアテレコをすることを前提としていくつも同じパターンのネタを繰り出すショートコント仕立ての作品だ。その点、麒麟のこの漫才では話の流れのなかで観客を裏切る要素としてアテレコが組み込まれており、より有機的な演出がなされていると言える。最後の「もうええわ」で終わるかと思いきやそこでさらに「田村の左手が僕の右の乳房を…」という川島の解説が加わるというのも、漫才の型を壊してしまえという覇気が感じられて良い。

このネタが第1回のM-1グランプリ松本人志に高く評価されたことにより、他の数多くの漫才コンビが手法を真似て「伏線回収」や「アテレコ」を取り入れたネタを披露していたのを知っている。いちファンとしては、そういった二番煎じのネタを見ると「これは麒麟の手法なのに」と歯がゆい思いもした。優れたネタがひとつ出ると、良くも悪くも、若手漫才師たちのネタ作りのモードをも引っ張ってしまう。

漫才は単に二人で馬鹿なことを喋りあうだけのものではなく、緻密な構成をもった舞台芸術になりうるものだということを、4分という短い枠の中で証明してみせた作品である。 

「東京プリズン」感想 〜不満と感服〜

赤坂真理の東京プリズンを読んだ。

 

主人公のマリは不思議な世界に迷い込んでいる。過去や未来の自分と電話が繋がったり、急に時空の異なる場所を歩いていたり、ヘラジカの声が不意に聞こえたり、太古の昔の天皇である大君と関わりを持ったりする。このスピリチュアルな体験の連続ともいえる運びをすんなり受け入れられるかどうかが、作品を楽しめるかどうかに大きく関わってくる。

 

アメリカの高校に通うマリは、友人たちと猟に行ってヘラジカを殺しその肉を食べる。道でナンパしてきた男についていくと怪しげなバーで強姦未遂にあう。そして進級をかけたディベートで「天皇の戦争責任」について論じなければならなくなる(これが物語の肝となる)。こういった試練や日米の文化の違いにぶつかりつつ、「日本とは」「東京裁判とは」「天皇とは」と考えるうちに、マリはそこかしこで幻聴や幻視を体験する。天皇英霊、あるいは東京裁判の速記を行っていた母と、夢想のなかで出会い、言葉を交わし、濃密に心を通わせ、さらには相手と一体になる。時にはそれらの霊的な声をそのまま身体から口へ通して話す”翻訳者”ともなる。

 

天皇の戦争責任」というテーマについて最終弁論の場に立たなければならないマリのために、幻聴や幻視という仕掛けを用意し、時空を超越して日本人の精神史を大きく体感させようとした作者の意図はよく分かる。しかしその方法はあまりにファンタジー的で、無理があると思った。マリは幻視や幻聴をとにかくしょっちゅう経験するが、現実世界との接続部分が残念ながら荒くて、滑らかに繋がらず、感情移入ができなかった。思うに、主人公がこれほどまでに頻繁に幻聴や幻視を体験するのであれば、主人公が追いつめられ切実な問題に直面し、それ相応に精神のバランスを欠いていなければ納得できない。その雰囲気づくりがこの作品でしっかりなされていたかとなると、大いに疑問である。マリは前半から、けっこう簡単に、過去の自分や架空の母と電話で会話ができる不思議を経験している。これでは「ひどく夢想家な女の子だな」くらいにしか思えない。

 

百歩譲って、過去の自分や母と空想のうちに心を通わせあう部分は、自分であったり家族であったり個人的な思い入れがあるはずなので、まだ分かるとしよう。しかしどうしても解せないのは、天皇(大君)や英霊とも簡単に通じあえすぎている点だ。母親が東京裁判で速記をしていたという背景はあるにしても、そもそも東京裁判や戦争については知識に乏しく、天皇の戦争責任について少し勉強しただけというマリが、天皇英霊に思いきり感情移入して涙を流したり、あまつさえ彼らと夢想の中で会話をしたり、一体化できたりなどするようになるだろうか?

 

例えば遠藤周作は「沈黙」という作品で、過酷な状況に追いつめられた人間を前にしてなおも姿を見せず救いの手をいっこうに差し伸べない神の”沈黙”をテーマに信仰の奥深さを描いてみせた。大前提として、人間に神の声は聞こえず、神の姿も見えないはずだ。だからこそ祈りがあり、信仰の葛藤がある。もちろん西洋社会の「神」と日本の「天皇」の概念は大きく異なるものの、例えば戦争中極限状態にあった日本兵たちにとって、天皇は「現人神」であり、少なからず心の拠り所だったのではないだろうか。この作品中にも、終戦直後の天皇のいわゆる「人間宣言」(≒天皇が己の神格を否定したとされる詔書)に失望した英霊たちが登場する。つまり彼らにとって天皇は人間ではない何か、神に近い何かだった。そんな彼らに天皇の声は聞こえただろうか?戦争の前線で倒れゆくさなか、天皇は心の奥底で語りかけてくれただろうか?ここで「きっと聞こえた、きっと語りかけてくれた」と断言できるのはよほど幼稚で不遜な者だけだろう。そう、極限状態にある者にさえ、神は、霊は、天皇は、語りかけないし、救いの手を差し伸べない。作家はそこから始めなければならないのではないか。一高校生のマリに天皇の声を乗り移らせたり、英霊たちと心を通いあわせたりするというのは、あまりに乱暴であると思う。

 

いろいろ書いたが、つまりマリの幻視や幻聴のような不思議体験が、クライマックスである最終弁論をドラマチックに見せるために強引に設えられた装置以上のものに思えないのである。当たり前だが太平洋戦争は実際に起こった出来事だ。「天皇の戦争責任」も、日本人の精神に根ざした複雑で現実的なテーマだ。リアルで切実な問題を、あまりにファンタジーな方法を使って考察していくことに僕は抵抗があった。またその幻聴や幻視の世界で、ふいにマリが啓示を得たように真理らしきものを悟ったり、禅問答のような受け答えをすんなりと進めていったりする不自然さも大いに気になる。これは作者がどうしても盛り込んでおきたい要素であるがために、物語の自然な流れを歪めてまでそれを組み入れてしまうせいで起こる事態だと思う。さらに言えば、マリの語り口もどこか夢見がちで悦に入っており、読者の共感をないがしろにしている感じが最後まで拭えなかった。さらにさらに言えば、そもそも幻視や幻聴、夢の世界での彷徨という場面設定は、小説で取り入れられた場合「なんでもあり」感が強くなって、僕個人としては雑駁な印象を受け読む気力が削がれることが多い。

 

…と、ここまで偉そうに批判的なことばかり書いて来た僕だが、こういった不満は、あくまで作家の「方法」に向けられたものである。では器ではなく中身に関して、結局この本を読んでどう感じたのか。その問いへの答えは、全く逆のことを言うようだが、「すごい小説だ」ということになる。むしろ「小説を超えた何かだ」とさえ思った。

 

天皇の戦争責任を巡る議論を通じて日本人の精神史というマクロなテーマを描きつつ、マリと母親との関係というミクロな家族単位の歴史も描いたという、この構えの大きさと緻密さには感服した。マリが英語と日本語の文法の違いに触れて感じた言語についての考察や、「I」という単語についての思い入れなど、鋭い表現も散見され、何度もページの端を折った。クライマックスの、キリストと天皇はどう違うのか、なぜあなたはキリストだけを救いの扉だと考えるのかとマリがスペンサー先生に問い詰める場面の、二人の丁々発止のやりあいは、日本人とアメリカ人の精神の一番デリケートな部分をむき出しにしてぶつかり合っているようで、非常にスリリングで面白い。

 

ディベート天皇や日本の制度について語る部分は小説だといえるのか、むしろ分析や評論の器として小説が利用されているだけでは、と言いたい向きもあるだろうが、優れた芸術作品は、ときにジャンルを越境してしまうものだ。だからこそこの作品は、小説を超えた何かであるがために真の小説である、ともいえる。戦中・戦後の日本がひた隠しにしてきた要素に真正面から向き合い、日本という国とマリという個人の物語を二重に絡めあわせた、こんな意欲的な作品は読んだことがない。

 

強引でファンタスティックな構成や感傷的な文体に僕がいくら不満を持っているとは言え、作者はかつてないことに挑戦しているのだから、方法がすんなりいかないのは当たり前と言えば当たり前だ。結局この作品を読んで僕はおおいに刺激を受けたし、他に類を見ない作品だと驚き、読書の楽しみを享受した。それはこの記事の大半を作者の方法に対する批判に費やしてしまったこととは全く関係ない。唯一無二の作品を書くことに挑戦するその姿勢、そして実際に唯一無二の作品たらしめた作者の腕力を言祝ぎたい。

「シルビアのいる街で」(ホセ・ルイス・ゲリン監督)感想

まずストラスブールという街があり、そこに暮らす人々があり、そのなかに主人公の男女が存在している。監督はその全体の広がりを表現する。誰とも分からぬ市井の人物の表情の変化、路地の歩き方、髪の揺れを繰り返し映し出し、ときには主人公の男の目を通してそれを見守る。この静かではあるが確固たる姿勢はカメラワークにも顕われている。例えばFIXカメラで路地を撮っているところに、物語の焦点となる女と、彼女を尾行する男がフレームインしてくる。画面上の路地を歩き抜けて間もなく二人はフレームアウトする。普通の映画なら、ここで二人の動きに従ってカメラを動かすか画面をスイッチングするだろう。しかし二人がいなくなったあとも同じ路地が、しばらく画面に映ったままになる。この一見不自然とも思える余韻が、実は人物の都合に左右されない極めて自然な風景の切り取り方によるものであり、街というものの奥行き、物語、歴史のイメージの層を否応なく心に積もらせる。この「頑固な鷹揚さ」とでも言うべき間の取り方がすごく心地よかった。

 

主人公の男を画家志望に設定したのは上手い。カフェで女性の顔のデッサンを描く男の視点にカメラを据えることで、いろいろな女性の表情を、自然に、じっくりと映像に収めることができる。男は過去に愛したシルビアと思われる女性をたまたま見つけ追跡するが、さんざんつきまとった挙げ句、結局人違いだと告げられてしまう。次の日、男は路面電車の停留所に座りまた様々な女性の顔を眺めるが、昨日の出来事を経ているため眼差しの意味合いは変わっている。シルビアの面影をあまたの女性の顔のなかに無意識に探してしまい、赤の他人の後ろ髪が、サングラスが、路面電車のステップを踏む足取りが、もはやただの赤の他人のものではなくなる。静かに混乱し目の前を走りすぎる路面電車の窓にもシルビアの幻影を見てしまう。いろいろな女性の顔をデッサンした手帳のページが風でめくれ、市井の「彼女たち」がシルビアと混ざりあう。

 

画面に映る様々な女性たちの表情も濃淡に富んでいた。カフェに座って陽気に笑っていた女性が、そのすぐあとにはなぜか暗い表情に変わっている。それまで深刻そうな顔だった女性は、同じテーブルの男に「それは違う。でも考えておくよ」と言われると少しだけ微笑みを漏らす。男にシルビアだと勘違いされていた女性も、路面電車での会話のなかでどういうわけか思い詰めたような表情に変わる瞬間がある。それらの理由を映画は全く説明しないが、説明されないがゆえに想像力が刺激され、結果的には観る側から彼女らに何物かを背負わせることで人物を立体的に彩ることになる。街の風景と雑音の中に、多数の人間の生の機微を浮かび上がらせるという、まさに映像でしかできないことをこの監督はやっている。

【旅行記】長島温泉、なばなの里

6月8日。近鉄特急で桑名へ。一つ前の駅の四日市を通るときはどうしても四日市ぜんそくというフレーズを思い出してしまい、その色眼鏡もあるのかもしれないが、車窓から見える工場の煙突からのたくさんの煙が気になる。桑名到着後は駅から三重交通バスでホテルナガシマへ。

 

長島リゾートには、ナガシマスパーランドや長島温泉、オフィシャルの三つのホテルやアウトレットモールがぎゅっとまとまっており、さらにそこから8kmほど離れた場所には、ベゴニアガーデンや冬場のイルミネーションで有名ななばなの里がある。このなばなの里には日帰りで何度か来ているのだが、温泉含め他の施設に来るのはたぶん初めて。細い道路を慎重にのろのろ進むバスで30分、長島リゾートに到着。バスターミナルで福山雅治のhelloがかかっており、この時代錯誤な感じがいかにも地方のレジャー施設っぽくていい感じ。

 

チェックイン時間がまだだったのでホテルから歩いてすぐのアウトレットモールへ昼食を食べにいく。全く予備知識がなかったのだがこの長島のアウトレットモールが巨大で、すごい人だかり。とりあえずフードコートで名物の「四日市とんてき」を食す。味付けはやはり名古屋寄りで、濃い味のソース。その後いろんな店を覗きながらウインドウショッピング。子ども連れがすごく多い。どちらかというと子どもより親が買い物を楽しみたいんだろう。盛大に泣いている子どもを見ると、服なんか興味ないぞ、こんな人の多いとこ連れ回しやがって、という親への抗議を猛烈に叫んでいるようにも聞こえる。まあしかし子どもはナガシマスパーランドで遊べるし、両親はアウトレットで買い物ができるので、考えてみればよくできたリゾートだ。寒くなってきたこともありジェラートピケで嫁も自分も上着を購入。数少ないがメンズの服もある。

 

ホテルナガシマへチェックイン。部屋で少し休憩して温泉に入りにいく予定が、なんと2時間昼寝をしてしまう。旅に来ておいてこの時間の無駄遣い、と後悔しかけるが、まあ旅なんて自分のペースで疲れが残らない程度に楽しむのが一番なんだから、と一瞬で気を取り直す。夕食の時間になってしまったのでバイキングへ。はまぐりのお吸い物。サザエのつぼ焼き。美味なり。伊勢うどんを初めて食べたが、濃い味の出汁で、うどんはやたら太く粉のかたまりといった印象。まあ旅先のご当地グルメとして食べるのならいいか、くらいの感じ。

 

夕食後、またバス停へ。かかっている曲は安室奈美恵のsweet 19 blues。期待を裏切らない90年代ソング。バスでなばなの里へ。この時期、夜はホタル鑑賞ができるのだ。2年前に来たときはほとんどホタル初鑑賞だったので感激した。宮本輝の「蛍川」のラストシーンのような「はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱(おり)と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた」、とまではさすがにいかないが、それでも何百匹もの蛍が見られる機会というのはやはり貴重だ。この日は19時半頃から川辺でスタンバイ。空の星や飛行機を指差して、「あ、蛍」というしょうもないボケをかます人が、俺を含め何百人もいるんだろうななどと考えながら待っていると、とっぷり日の暮れた夜8時すぎ頃になってようやく現れ始めた。

枝葉の陰でひっそりと瞬く蛍。枝から枝へ飛び移りながら自分の光を川面に映す蛍。二匹が並行して飛びながら少し離れしばらく向かい合ったりするのは両想いのカップルだろうか。静かに水草を飛び離れた一匹が、滑らかな曲線を描くようにしてゆっくりと夜空の高みへ昇っていく、そんな姿にはつい見とれてしまう。指に止まってくれたりしないものかななどと思っていると、見知らぬ小学校高学年くらいの女の子の手の甲に蛍が一匹止まっていた。しかもその蛍はくっついたまま全然飛んでいかない。「熱に弱いから、人間の体温で弱っちゃって、飛んでいけねえんだよ」と、弟らしき男の子に説明していた。「止まった以上は、こっちから飛ばしてあげないと、もう飛んでいけねえんだよ」蛍についての知識力もさることながら、そのぶっきらぼうな男みたいな喋り方が頼もしくてぐっときた。

 

ホテルに戻ってから、併設されている温泉施設「湯あみの島」へ。透明のアルカリ泉、充実の露天風呂に大満足。炭酸風呂はちんこの先端や金玉の裏がひりひりする。ジェットバスは立ったまま入る深い風呂で、ボタンを押すと腰をほぐすためのけっこう強力な泡が背中側から噴射されるのだが、押すボタンをいろいろと間違えてしまい、前からも後ろからも横からも、同時に様々な方向からの強力噴射に見舞われることとなり、ひとりで軽いパニックに陥った。湯上がりに売店でクーリッシュ(バニラ)を買い、喉と胃袋を冷やす。部屋で少しテレビのバラエティ。ベッドで30分ほど読書、イアン・マキューアン「贖罪」。就寝。

 

2日目。7時半起床予定だったが8時に起きて朝食バイキング。粥に薬味を入れすぎてやたらしょっぱくしてしまう。クロワッサンとロールパンなど。午前中は再びなばなの里へ。園内の植物を見て回る。都会でしか暮らしたことがないこともあって、花を見ても種類がとんと分からない。このまえ家の近くを散歩していたときに、建物の花壇に咲いている花を見て「これ何の花?」と嫁に聞き、ツツジだと教えてもらったのだが、ツツジがどんな花か知らないなんてありえない、と嫁は信じられない様子だった。そんな植物に対する驚異的な無知を誇る俺は、こういう場所に来ると新しく知ることだらけなのですごく刺激的で楽しいのである。

 

好きだった花。

まずは紫陽花3連発。品種名は、上からダンスパーティーピンク、ジューンブライド、シティライン・パリ。紫陽花に関してはけっこう派手な色合いのものが好きかもしれない。

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こちらは以前から好きな、フクシア。小さい人形みたいな出で立ちで可愛い。

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コンロンカ。花弁が見事な星形。

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菖蒲はこういうちょっと紫が入っているぐらいのが好き。真白だとくしゃくしゃのティッシュペーパーみたいに見える。

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ちょっとびっくりしたのがこの花。コーカサス原産の「ラムズイヤー」。直訳すると「羊の耳」。葉っぱが細かい綿毛に覆われて、柔らかく弾力があり、その名の通り羊の耳のような触感! 綿毛のおかげで、雪がまばらに積もったように全体が白っぽく見え、なんとなく幻想的。

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もういちどホテルナガシマに戻り、温泉。たまたまお笑い芸人、流れ星に遭遇。お土産を買い、帰宅の途へ。

チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』感想

岡田利規主宰のチェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』をBSプレミアムで観た。これまで岡田氏の芝居は観たことがなかったが、小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(大江健三郎賞受賞作品)は以前友人から文庫本をもらって読んだ。現代の若者の生活や気分を、すごく新鮮なかたちで切り取って生のまま食べさせてくれるような印象があり、これは舞台作品もぜひ観てみたい!と気になっていたのだった。

 

『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』はコンビニを舞台にした作品である。登場人物はコンビニの店員、店長、スーパーバイザー、そして客。ただしこれらの設定はあくまで枠にすぎず、肝心なのはその枠の中に詰め込まれたいくつもの企みだった。こういう演劇の方法もあるのか、と俺は戦慄した。頬を強く張られるような、というよりは、怪しげな薬品を注射されだんだんと覚醒してきて身体が熱くなり居ても立ってもいられなくなるような、そういう種類の衝撃があった。小説を読んだときもおもしろいと感じたが、やはり芝居の人だ。初めて観た岡田氏の舞台は陰湿でありながらぎらぎらとしていた。

 

まず登場人物の台詞。現代の若者が使いそうな言葉回しであり会話であるが、それだけでは説明が不十分だ。岡田氏は書き言葉ではない"話し言葉"というものを強く強く意識している。話し言葉特有のまだるっこしさ、たとえば詰まり(「あのー」「ええと」「うん」「ええ」など)だとか、反復(「なんか変じゃないですか、えー、変じゃないですかなんかそれ」など)といった要素を、台詞から排除することなくそのまま芝居に組み込んでいる。いや、そのままというより、岡田氏はむしろそこをかなり強調している。それゆえに台詞は反復や詰まりの頻発する、意図的な冗長さを備えた、地に足のついていない節回しになる。

 

例えば中盤、新米店員がレジのバーコードリーダーで商品のバーコードを読み取ろうとするのにうまく読み取れない、という苦労を観客に向けて語る場面があるのだが、その台詞を抜き出してみる。

 

「あのー、ピッ、て、バーコードを読み取る機械。ピッ、ていうバーコードにかざす、機械。レジの機械にコードでくっついてるやつがあるじゃないですか。あれバーコードリーダーっていうんですけど。時々あれが、バーコードを何度もこう、やってるのに、全然バーコードを読み取らない、ピッ、て言ってくれないってときが、あるじゃないですか。あのバーコードリーダーって機械から赤い光線がすーーって出てるじゃないですか。あの、赤い光線を、バーコードのところにちゃんと、あててるつもりなんですよ、つもりっていうかすーごいちゃんと、あててるんですけど、それなのに全然、何度、一生懸命やってもピッて、言ってくれないんだけどっていうときが、まれに、あるじゃないですか。で、あまりに読み取らないと私も微妙に、焦ってくるんですよね。で、私がこう、やってるのを、目の前で待ってるお客さん、ていうのもいるじゃないですか。お客さん今のところおとなしく黙って、立って、待ってるんですけどでも内心でこの人は今、おいそこの店員おいなにやってるんだよとれーんだよとっとと早く、読み取らせろよーとか、思ってる可能性ってあるよなー、って、思うじゃないですか。てきぱきするために機械化してんのにかえって手間取ってたら意味ねえだろって、思ってるかもしれないなーって、思うんですよねー。ていうかそれすんごい私もそう思うし、で、そんなこんなで、焦るじゃないですか。でも、いくら焦っても、読み取ってくれないものはやっぱり、読み取ってくれないじゃないですか。たとえばそのー、読み取ってくれない物がアイス、とかだったりすると、バーコードが書いてあるところにこう、霜が、かかってることとか、でああその、霜のせいで読み取らないのかなーとか思ってこう、指で、霜拭いたりするじゃないですか。でも拭いてもやっぱり読み取らないよっていうケースがほとんどなんですけど、まあ、そういうときはだから最後は、あきらめて、バーコードの下に書いてある数字、こう手打ちで、入力するっていうことに、なるんですけどねだいたい。」

 

これを黙読する場合、たぶん1分もかからずに読めてしまう。しかし役者はこれを3分30秒ほどかけてゆっくりゆっくりと、詰まりながら、ときに半笑いで語る。どうでもいいような、そしてなかなか前に進まないような内容を、ひとりで延々とだらだら喋られるのだから、観客としては苛々するはずである。ところが俺はこのシーンがすごく面白かった。この執拗さとどうでもよさと気怠さを混ぜてとろ火で温めるような台詞回しは実に新鮮だった。集中して聞いていると、乗り物酔いをしかけているときに後頭部のあたりや肋骨の内側が、ぐるぐるとゆっくり回りだす、そんな妙な感覚にさえ陥る。そしてそういう台詞は当然、いわゆる「演劇的台詞」らしいものからかなり離れたところにある。フィクションはフィクションっぽくあればあるほど、作り物っぽくあればあるほど、現実の人間の世界とは関係がなくなり、見る者の精神や生き方に揺さぶりをかけることが難しくなるものだ。しかしその点この作品は”台詞っぽい台詞”をかなぐり捨てることでフィクションの弱さから見事に脱却している。演劇という箱を内側から壊してしまう。箱を力任せに蹴破って派手に飛び出すというのではなく、硫酸かなにかをとぽとぽと垂らして徐々に箱に穴をあけ、屈んだ状態で陰湿にもぞもぞと這い出してくる。

 

次に登場人物たちの身体表現。これはなかなか文章では書き表しづらく、とにかく観てもらうしかないのだが、各人物は主に喋っている間じゅう弛緩したダンスともいえる動きを見せる。動作は場面ごとに変わり、ときに実際の行動と連動する(お釣りを渡す動作、バーコードリーダーをバーコードに当てる動作など)ことや、台詞や心情と連動する(罪悪感にさいなまれているときにアイスで頭を叩く、うんこをしたいときにお尻が痙攣するなど)こともあるが、たいてい無意味なものなっている。そしてこの緩やかでうねうねとした無意味な身体表現は、上に述べたような頼りなくぐらついた台詞たちと見事に調和する。実際、堂々巡りするような台詞のときは動きも規則的にだらだらと繰り返されたりもする。

 

俺はこの動きを見ながら、チェルフィッチュの役者たちは人間の言葉と動作の結びつきがいかに脆いものであるかを暴いているのだと感じた。思うに、言葉と動作の連動性というのは習慣により判断されるのではないか。「そうか!」と言って掌を打ち鳴らしたり、「おまえ!」と言って指を差したりする、これらの動作は、たまたま多くの人間たちの習慣により「そうか!」や「おまえ!」という言葉に連結され固定化された紋切り型に過ぎない。そこに絶対性などない。親指と人差し指で丸をつくる”OKサイン”が、尻の穴を意味する国だってあるのだ。つまり特定の言葉を表現する動きには本来もっともっと広がりがあるはずで、チェルフィッチュの役者たちはまさにその広がりの一端を示しているのである。各人の動きは台詞の直接的な意味を超え、心象(イメージ)を捉えようと手を伸ばし、戯れる。そうすることで自らの存在を解体し、増幅させ、丁寧に組み立て直す。「役者は台詞をうまく言うことなんかよりも、”そこに在る”ことの強さを大事にしなければならない」、岡田氏のこの信念を、役者たちの身体表現は忠実に実践している。

 

そして特に今回の作品に特有の企みであったと思われるのは、音楽である。開演から閉演までバッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻・全48楽章がずっと流れている。ただのBGMなどと切り捨ててうっちゃっておけるようなやわな存在感ではない。岡田氏はインタビューで「バッハの音楽という格式の高いものと、コンビニという現代の我々の"しょぼい"生活を組み合わせたときに、何かが起こるのではないかと思った」と語っている。確かにコンビニで起こる出来事はいわゆる劇的なものではない。苦悩することと言えばバーコードリーダーがバーコードをなかなか読み取らないこと。事件といえば客がクレームを言いにくること、上司からパワハラを受けること。テロリズムといえば商品購入者の性別をデータとして入力する際にわざとでたらめに入力すること。我々の日常の仕事や生活は小さく、しょぼい。そこにバッハの平均律クラヴィーア曲集の、チェンバロの音色が絶えずまとわりつく。この違和感は強烈だ。しかしそれでいて、コンビニという場面設定に対するなんとも不思議な親和性も感じられるのである。オーケストラだと大仰すぎる。ロックだと当たり前すぎる。硬く跳ねるようなチェンバロで奏でられ、長調と短調がちょうど半分ずつ入った、暗いのか明るいのか分からないようなこの曲集はまさにちょうどいい!

 

そしてバッハの音楽に、登場人物たちのあのまだるっこしい台詞と、うねうねとした身体表現が絡み合う。音楽、台詞、動き、これらの相互作用によって舞台はなんとなく非現実的な様相を帯びる。コンビニは地面から浮かび上がり上空でゆらゆらとたゆたう。観客たちは本来なら自分もそこに含まれているはずの現実的な小さな出来事を、まるで雲の動きか白昼夢でも眺めるように、顔を上向け口をぽかんと開けながら眺める事になる。

 

そして全48楽章の合間合間、曲同士の繋ぎのためにほんの5秒ほど無音になる瞬間に、ふと我に返る。この作品で表現されているのは、紛れもなく自分たちそのものである。頼りなく旋回する台詞、支柱を失ったような身体表現、暗みと軽みの共存する均整の取れた音楽。それらは全て、頼りなく、支柱を失い、暗さと軽さをないまぜにしながらなんとか精神の均衡を保とうとする我々の生活そのものの写し絵なのである。訳の分からない身体の動きとだらだらした台詞の異様さに笑いさえ漏らしていた観客は、それがすなわち自分たちの異様さに他ならないと気づき、もはや笑っている場合ではないと絶句する、あるいは逆にもうこれは笑うしかないなと吹っ切れて笑い続ける。俺はどちらかというと後者だった。ただし、これだけ革新的なアプローチをいくつも試しながら、なおかつ現代人の姿を的確に捉えることに成功している岡田氏の才能に対する嫉妬は、笑い声と一緒に身体の外へ飛び出てしまってはくれなかったが。

東京観光 〜マグリット、ケイティ・ペリー、ハシビロコウ〜

週末は嫁と東京観光。新幹線で駅弁、海鮮丼。食後はほぼ睡眠。

品川からホテルのある溜池山王へ。ホテルは国会議事堂を見下ろす部屋。少し休憩してから乃木坂まで歩く。途中で「100%DANSHAKU」というフライドポテトの屋台で、細い芋を格子状に重ねてワッフルみたいにしたポテトを買い、食べ歩く。フライドポテトがベルギー発祥の料理だというのを嫁から教わる。六本木ヒルズを横目に見ながら、国立新美術館へ。マグリット展。中学生ぐらいの頃から好きだったが、こういった大規模な回顧展に行くのは初めて。

マグリットはあくまで即物的な絵を描く。好んで描く対象物は空や鈴や岩などどこにでもある事物だが、突拍子もない場所に大胆に配置したり、縮尺をいじったり、見える部分と見えない部分を反転させたりすることで、平凡であるはずの物たちが実は隠し持っている存在感、不気味さを浮き彫りにする。そうして出来上がった絵のなかでは、鳥の身体が雲の浮かぶ空の模様になっていたり、靴が素足そっくりだったり、数えきれないほどの山高帽の男たちが宙に浮いていたりしている。誰でも一目見てここが変だと指摘することができる。この絵はどう見ればいいんだろうとか、何を描いているんだろうとか、どんな意味があるんだろうと悩む必要はない。ただそこに生じている不思議さをそのままに受け止めるだけで充分に楽しめる。この単純明快さが俺は好きだ。

事実、マグリットは自分の絵における観念や象徴性を否定し、見る者による分析や解読をも拒否している。見る者に思考を強制しない、というよりむしろ思考を捨てるよう促す。小難しさを削ぎ落とした形で直接感覚に訴えかけ、時に恐怖を、時に笑いをかきたてながら、現実世界に対する新たな視点・解釈を提示してくれる。僕などからすればそれは”ボケ”であり、各々の作品を見るたびに”ツッコミ”を入れたくなるような代物だ。マグリットは空間や事物の構造・関係性を解体するようないくつもの革新的なアプローチを試しながらも、摑みどころのない抽象画ではなく、誰でも即時的に驚いたり怖がったり笑ったりツッコミを入れたくなったりするような捉えやすい絵で勝負しており、そこが俺には気持ちがいい。そして彼の発想の数々は奇形の種子となって、美術やデザインはもちろんのこと、文学や音楽、演劇やお笑いなどあらゆる表現形態の地中に植え込まれ、歪みねじれた妖しいモダニズムの花々を、今なお咲かせ続けていると俺は思う。

あと展覧会の印象としては、若い女性客が多かったように感じた。マグリットが好きなんていうのは中二病の傾向のあるうだつのあがらない男連中(俺も含む)ばかりかと思っていたので少し意外だった。デザイナー志望の方も多いのかもしれないなどと思ったり。

  

電車を乗り継ぎ国立競技場駅へ。東京体育館ケイティ・ペリーの来日コンサート。嫁がファンで、今回東京へ来た一番の目的はこれ。客層は若い女性だらけだが欧米人らしき人たちもたくさんいる。グッズ売り場でタオルとパンフレットを購入。

前座はThe Dollsという、DJとバイオリニストというちょっと珍しい2人組によるクラブミュージックのパフォーマンス。これが30分あり、お客さんが暖まったと思いきや、機材トラブルでそこから1時間待ち。待ちくたびれたところでようやく開演。ケイティ・ペリーがステージにせり上がってきて、「Roar」からスタート。1年半くらい前にはベストヒットUSAで何週もずっと1位だった曲なので、これを聴くと2年前の引っ越したばかりの生活やらケアンズ旅行やらを思い出す。明確な世界観、サビの分かりやすさと盛り上がり、耳に残るリズミカルな吠え声。派手なMVを含め、万人受けするエンタメとして本当によくできた曲。

曲の合間のMCタイムでは、ケイティに日本語を教えてあげる人を、お客さんの中から1人選んでステージに上げるという流れに。選ばれたのは、ケイティの舞台衣装に似せた手作りの服で参戦していた21歳の女子大学生。ケイティとこの子がステージ上で、携帯でツーショット写真を撮るという展開になると、きゃーーー!!!と会場中からものすごい歓声がわき起こる。名も無き一ファンとケイティがツーショットの写真を撮るだけで、客がこの日一番とも言える盛り上がりを見せた。この現象は興味深い。きっとファンたちは皆、無意識的にこの女子大生に自己を投影し、共感を越えて一体化することで、まるで自分自身がケイティと写真を撮ったかのような疑似体験を得たのだろう。1人のファンが1万人の客の代表となり、全てのファンの分身へと瞬時に姿を変える。ファン心理っておもしろい。

ケイティ・ペリーはクイーンオブポップともてはやされながらも、お高く止まった感じがあまりしないので好感が持てる。もちろんそういうイメージでいこうという戦略でもあるのだろうけど。ファンとの距離が近いというのは、ケイティにそれまでの歌姫たちとは異なる現代性をもたせるうえで重要なファクターになっている感じがする。

ライブの演出としては、Walking on the airの白いカーテンと風を使った振り付けが面白かった。俺が個人的に好きなThis is how we doも聴けてよかった。少し気になったのは、ボーカルの歌声がすでに入っている曲がいくつかあって、ケイティが全てを生歌で聴かせるわけではなかったこと。ライブにあまり行かないのでよく分からないが、それはそういうもんなのか。

 

さて二日目はホテルで充実のビュッフェの朝食を楽しんだあと、上野動物園へ。駅のコインロッカーが空いていなく、動物園までキャリーバッグを転がしていく羽目に。4月にしては異様なまでの暑さでびっくり。すぐにジャケットを脱ぐ。

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パンダはすぐに見る事ができた。オスが一頭。ご丁寧にギャラリーの目の前で胡座をかき、笹を食べている。「人間どもよ、これが見たいんだろ」と言わんばかりに、観客に見せつけるように食べまくる、非常にサービス精神旺盛なパンダ。笹の棹に齧りつきバキバキとへし折るパワフルな様子はまさに「大熊猫」という感じ。食べながら、恥ずかしげもなく黄緑色のうんこを放り出す。

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余裕たっぷりの出で立ちで、完全に人間どもを下に見ている。

パンダから離れ、鷹や鷲や猿やホッキョクグマカピバラを見る。

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こちらはオグロヅル。首を真後ろへ向けて、自分の胴体に顎を預け休憩している姿が愛らしかった。片足一本で立っており、近くにいた若いお母さんが「体操のお兄さんみたいだね!」と子どもに言っていたが、何か違う気がする。

さて今回上野動物園で俺が最も会いたいと思い、胸躍らせていたのはハシビロコウ。アフリカの鳥で絶滅危惧種らしいが、ガイドブックを読んでいて、その目つきの悪さとふてぶてしさに一気に虜になってしまった。下の写真では分かりづらいが、世の中に何一つ楽しみを見いだしていないような、消える事のない静かな怒りを呈した顔。体毛がすみれ色というのも渋くていい。

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上野動物園ではめったに動かない鳥として有名らしいが、いざ檻に近づいてみると、運良く、嘴で羽根の下あたりを痒そうに擦る様子を見る事ができた。虫に刺された脇の下をぼりぼり引っ掻くおっさんのようだった。

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グッズショップで購入したハシビロコウのぬいぐるみ。嫁からは「数ある動物のぬいぐるみからこれを選ぶような男は、絶対にモテないよ」と指摘される。

 その後、不忍池近くの老舗洋食店「上野精養軒」で昼食。入ってから知ったのだがTBSの日曜劇場「天皇の料理番」のモデルとなった料理人もこの店の出身らしい。よもやものすごい高級店かといささか心配になったが、ランチの値段はいたってリーズナブルで安心した。

まだまだどこかを観光して東京を満喫してから帰る予定だったが、二日連続で歩き回り疲れすぎたため、夕方には東京駅へ。夫婦ともに体力のなさを嘆く。東京駅一番街のキャラクターストリートでぐでたまの人気に驚く。ギャレットポップコーンを買おうとしたら50分待ちでこれまた驚き、断念。みんなよくやるよ。食にあまりこだわりのない俺には、行列に何十分も並んでまでこの食べ物を食べたい!という思いがいまだに理解できない。新幹線に乗車してすぐにコンタクトを外す。目が真っ赤になっていた。