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也田貴彦blog

おもに文学やお笑いについて。

R-1ぐらんぷり2017 感想

Aブロック

レイザーラモンRG

渋谷と新宿のドラッグ→ドラッグストアからのこんにゃくゼリーワゴンセールへの脱線、静岡民全員テロリストの理由おもしろい。ただこのパターンならもっとたくさんの地域をいじってほしい。10分くらい欲しいネタ。

 

横澤夏子

これも持ち時間の短さがかわいそう。一人芝居のうまさを見せるタイプの芸人さんはこの短さではなかなか伝わりきらない。母親のキャラはもっと癖があるほうが好きやなー、例えば同じシチュエーションで友近ならもっと激しいお母さんをやるだろうなとか思ってしまった。

 

三浦マイルド

すごくよく練られてるが、見せ方はこれが最良なのか?手数を増やすために矢継ぎ早にフリップ出す戦略だろうが、緩急をつけて特に面白いフレーズをもっとフィーチャーしてほしかった。「この計算方法びっくりするだろ?」とか相当面白いのに、もったいない。

 

サンシャイン池崎

「とうもころし、オッケーーー!!!」は最高なんやけど、なんか今日は全体的にテンションがMAXより若干落ちていなかったか?去年よりインパクトが落ちるのをツカミで逆手にとるのはうまい。勢いだけと言われようが、勢いだけを極めるのはすごいこと。

 

 

Bブロック

ゆりやんレトリィバァ

森ガール的なシチュエーションとゆりやんの出で立ちのアンバランスさは面白いけど、繰り出される断片的なあるあるとシチュエーションの関連がなさすぎて、そのなさすぎる感じがナンセンスでいいのかもしれないが、もうちょっと有機的な場面作りをみたかった。

 

石出奈々子

「もしもジブリのヒロインぽい子が大阪に行ったら」という題目を忠実に演じていて好感。コントの基本形「もしも〜が…だったら」の強さを再認識。短い時間に序破急がきちんと詰まっている。不思議→不思議→掛布の遊びも良い。ただジブリを知らない人には伝わらない。

 

ルシファー吉岡

シチュエーション作り、ワードセンスともにすごい。「もっと歴史と距離置こう」「こんなんじゃ信長のとこ耐えられないよ」。序破急の破があればなおよかった。これも持ち時間がもうちょっと長ければ…

 

紺野ぶるま

21歳モデル一人暮らし→人の金でゴルフしてる、みたいな偏見に満ちた決めつけは面白いんだけど、客のプロフィールを聞く部分で間が空いて、ひとつひとつが単発の笑いになるのが惜しい。占いの結果のところに笑いのポイントが集約されるのもなかなかハードルが上がる。

 

 

Cブロック

ブルゾンちえみ

キャラクター造形の面白さもさることながら、音楽の演出がすごくうまい。この人が魅力的なのは、きっと本人自身が好きでたまらないタイプのキャラクターを素直に演じてるからじゃないかな。本人が楽しんでやってるのが伝わってくるもんね。

 

●マツモトクラブ

お得意の独白型ナレーションや、他人の音声を交えた奥行きのある物語空間。今回は哀愁の要素が薄めで、少し物足りなさを感じてしまったが、ネタに確固たる「らしさ」のある人なので尊敬している。

 

アキラ100%

芸人さんのネタを見ていると、仮に自分が芸人になってこのネタを思いついて練習して、同じくらい面白く演じられるだろうか、とか考えたりする。それで言うとアキラ100%のネタは、僕には絶対にできない。ある意味、シルクドソレイユみたいなもの。僕は拍手する。

 

●おいでやす小田

「真に受ける」というテーマ一本で展開していく一人芝居。ショートストーリーとしての核がしっかり提示されていて、好きなタイプのネタ。これもルシファー吉岡と同じく、後半に大展開があれば言うことなしだが…総じて持ち時間の短さが惜しい。

 

 

ファイナルステージ

サンシャイン池崎

「でっかい剣持ってる系男子あるある」。ナンセンスすぎて俺は一本目より好き。展開もへったくれもない、構成的なネタへのアンチテーゼ。これも才能。

 

石出奈々子

悲しいかな、キャラクター設定と笑わせ方が一本目と変わりばえせず。ジブリありきの設定にこだわらず、演技力ありそうなのでいろんなキャラクターを試してほしい。

 

アキラ100%

プロフェッショナル。何がすごいって、この芸を極めようとして心折れることなく練習を重ねる、その倒錯した意気込みがすごい。アホなことに真剣に取り組む見本。

 

 

今回はネタ時間の短さが特に気になった。3分に起承転結を詰め込むのはなかなか難しい。インパクト重視のネタが強くなるのは必然。M-1のように4分あればもっとR-1の包容力が上がるはずだが。

 

M-1グランプリ2016 感想

M-1という大会、それに漫才師への愛と敬意を込めた、自分なりの真摯な感想です。偉そうな知ったかぶりみたいなことばかり書いていますが、僕は決勝進出したしないに関わらず、プロの漫才師のすべてを激しく尊敬しています。

 

① アキナ

「大人びた5歳児」のキャラクターショーとも言えるが、台詞がよく練られていて演技もとてもうまい。山名はキザな役が得意だけれども、それが見事にハマったネタだ。彼らは今回のM-1では3回戦・準々決勝・準決勝と全てこのネタ一本で勝ち進んできているのだが、確かにそれを可能にするくらい完成度が高い。最終決戦に一歩及ばなかった原因を探すとすれば、笑いのトリガーの役目が、全面的に山名のキャラ・台詞に委任されてしまっている点だろうか。ツッコミのバリエーションによって生み出される笑い、あるいは掛け合いによってリアルタイムに捏ねあげられる笑いの上乗せがあれば、点数はさらに伸びたんじゃないかと思う。また達観したキャラクターの5歳児というのは設定として面白いが、心情に起伏がないのでプロットにうねりをもたせるのに苦労はするだろう。最後のあだ名の話で泣き出すところみたいな、起承転結でいう「転」を、もう少し手前から仕掛けていれば漫才は大きく動いたのかもしれない。しかしボンドのくだりは相当な破壊力!!

 

② カミナリ

いい意味で、数式的な漫才だと感じた。このネタに登場する全てのボケとツッコミを、矢印で繋げたり()や{}で囲ったりしながら、構図を分析したい欲求に駆られる。一つのボケ−ツッコミのなかに、入れ子式に別のボケ−ツッコミが嵌りこんでいる構造が粋だ。しかもそれぞれが一対一対応ではなく、すでにツッコみ終わったボケに対してのちほど違う角度から再びツッコんだりもするので、ひとボケで二度美味しいというか、ざるそばを食べ終わったつけ汁にそば湯を注いでまた味わうというような楽しみ方もできるのだ。

一つのボケを泳がせて泳がせて、あとから大きくツッコむという、この形式だけでいえば実はそこまで新しいわけではない。例えば去年のM-1でのジャルジャルのネタも、一つのボケをしばらく放置して後々ツッコむというシステムを効果的に組み込んでいた。また初期の銀シャリのネタにも、前半で鰻がひとしきりボケたうえで、後半で橋本がひとつひとつのボケを順番にツッコみ回収していくというものがある。カミナリの場合は、この「泳がせてからのツッコミ」のシステムにプラスして、上に書いたような図式的構造を巧みに持ち込んでいるところにこそ、本当の独自性があるのではないだろうか。

彼らのコンストラクチュアルな笑いのセンスは、そのままでも十分通用する魅力をもっているはずだが、頭を思い切りひっぱたいて大声でツッコむというアホっぽい演出で全体をあえてくるむことにより、クレバーさをうまく隠して敷居を下げてくれている。そういうプロの道化めいた姿勢も含めて、男前である。

 

 

③ 相席スタート

合コンを野球になぞらえたコント。アナウンサー役の山崎は女性を様々な球種に例えて実況する。バッターに扮した山添はその球を振るのか振らないのか…。コントの最中はツッコミ不在のダブルボケになっており、コントの額縁がしっかりしているので、個人的には好きな形態だ。

「かわいいのに元彼のタトゥー」→「急にコースが変わりましたね」、「結婚相手を見つけにきました」→「危険球、バッターが幹事を睨んでおります」、このあたりの発想は実にハイレベル。だからこそ、こういう小気味良い発想がもっともっと出てきてほしいなとつい期待してしまう。また打席が終わってから毎回アナウンサーから選手へのインタビューの場面が挟み込まれるが、あそこでどうもワンクッション空いてしまう傾向があり、幾分もったいなさを感じてしまった。

とはいえ男女コンビであることの必然性をもった良いネタだし、山崎は嫌味さのない微妙な色気を出せる唯一無二のキャラクターなので、さらに趣深い独自のネタを作り出してくれることと楽しみにしている。

 

④ 銀シャリ

僕はたまに橋本が、一本の骨をくわえ込んで離そうとしない貪欲な犬に見えることがある。ここでいう骨とはボケのことである。たったひとつのボケに、彼はよだれを垂らして食らいつき、あらゆる方向から舐め回して、まさに“ボケの髄までしゃぶる”とでもいうような格好なのだ。

例えば「♪ド〜は動物のド〜」というボケに対して、橋本はどれだけ多くの言葉を尽くしてツッコむことか。「それ、やったらあかんねん」「表紙をp1とカウントすな」「厚紙のとこやから」「そっから細分化されていくから、様々な動物へと」「『動物』ってアバウトやろ、来年の干支なんやったっけ、うん動物、言うか」「表紙やから、地主さんやからこれ、大本やからね」…この腕力たるや。ボケをずいぶん長く引っ張っているにもかかわらず、見る者にしつこさを感じさせずに、いやむしろ、しつこいなと思わせながらも笑わせてしまうというのは、”しゃべくりの豪腕”の最たるものだ。抜群のワードセンスもさることながら、実に気持ちよさそうに、本人がノリにノッて言葉を操っている雰囲気こそが、松本人志の言う「腹たつ」ほどの面白さを現出しているのである。

鰻の持ち味である可愛げのあるおとぼけが前半から快調で、しかも後半になるにつれ橋本のツッコミ力が爆発する仕組みになっていたこともあり、構成の面でも文句なしの、惚れ惚れするようなクオリティだった。

 

⑤ スリムクラブ

『アンダー18歳以下の天狗』。上沼恵美子の「無理があった、飛びすぎ」という評が、まあ確かに、という感じ(笑)。

2010年の彼らのネタのテーマは『以前一緒に生活していたと言い張る人』、『街で一回見ただけの人の葬式に来た人』だった。これらの設定には、真栄田の演じるキャラクターの得体の知れない不気味さ、どこか哀しい切実さ、ゆえに対処する内間の非常な困惑、のような要素が詰まっていた。ありえないシチュエーションのはずなのにどこかリアルな、ざらついた手触りが確かにあって、その手触りこそが面白みの核だったようにも思う。その点今回の天狗の設えは、いかんせん少し子供っぽいというか、不気味さ・切実さ・のっぴきならなさみたいな部分がちょっとずつ薄まっていて、そのぶん、戸惑う内間への観客の共感も、若干のトーンダウンを余儀なくされたというところだろうか。二人の会話のテンポがちょっと早くなっているのも気になった。

スリムクラブの漫才はそろそろ曲がり角に来ている頃と思う。「ばあちゃんを2WDに戻してください」「家族のトーナメント表」「おばあちゃんのところから線引いて、シードって書いてある」こういうずば抜けた発想力はやっぱり天才的なので、違ったフォーマットにまたもや驚くような形で自らの才能を盛り付けるスリムクラブを見てみたいと、つい贅沢な願望を抱いてしまう。

 

⑥ ハライチ

自分の意図がうまく伝わらないままゲームが先へ先へと進んでいってしまう、そのもどかしさと焦りを、さすが芸達者の澤部が非常にうまく間抜けに演じてくれる。ただ、どこまでいっても題材がゲームなので、さっきのスリムクラブの話ではないが、澤部の困惑に切実さがあらわれてはこない。僕個人の好みの話でしかないが、人間とゲームの間に生じるずれよりも、人間同士のディスコミュニケーションの方が面白いのになあと、どうしても思ってしまうのだ。現実世界の人対人は、ゲーム以上に融通も修正も効かない。だからこそおかしく、哀しく、ドラマチックなんじゃないだろうか。

何かに翻弄される役柄を担うと爆発的な面白さを発揮する澤部だ。岩井は無感情であることが多く、それはそれで好対照なのだが、もっと積極的に澤部を困らせ、もがかせてほしい! 今後岩井がなにかしらの方向へ突き抜け、澤部のキャラクターをなお一層活かすことができれば、泥臭い人間喜劇の傑作が出来上がるだろうことは想像に難くない。その「なにかしらの方向」が何なのかが問題なのだけれど。

 

⑦ スーパーマラドーナ

田中の一人芝居に対して武智が状況を解説しつつツッコむという、ここ1〜2年の彼らのネタではおなじみのフォーマット。虚弱そうな田中がサイコパス的な人格をみせるというギャップが怖くもあり面白く、安心して見ていられる。ただ去年の感想にも書いたのだが、武智の立ち位置が常に外野であるため、二人の間に掛け合いが生まれる機会がなく、そこが僕個人としては小腹のすくところだ。

伏線の張り方が実に巧みで、ネタ作り担当の武智はかなりの策士という印象。ボケのクオリティも高い。「四頭身」の天丼は、ちょっと過剰なきらいはあったが。オチをおざなりにする若手漫才師が多いなか、ネタをまるごとひっくり返すあの見事なオチには快哉を唱えたい。

 

⑧ さらば青春の光

「漫画みたいな話」があるなら、「能みたいな話」もあるんじゃないか。そこの発想一本勝負で最後まで突っ走る潔いネタ。一つのアイデアにしつこいほどこだわったネタ(ジャルジャルのコントが良い例)は、芸人さんの「やりたいことだけやりたい」感じ、笑いに対する純粋さ、芸術家的な傲慢さ、みたいなものがにじみ出ていて、僕は大好きだ。能、浄瑠璃、キャッツ、こういうバリエーションが他にもあといくつか、思わぬかたちで入ってくれば、なお一層楽しかっただろう。

ひとつの着想を最大限に活かすタイプのネタを構成する、この力においてさらば青春の光の右に出るコンビはいない。こっちが胃もたれするくらいに濃厚な核をもったネタ、面白がるポイントを蒸留したような、不純物のないネタを、これからも引き続き作っていってほしい。

 

⑨ 和牛

そもそも僕はコント漫才に対してはあまり良いイメージを持っていない。コントに入るならセンターマイクの前でなく最初からコントでやればいいやんと思ってしまうから…なのだが、とはいえこんなにハイクオリティなコント漫才を見せられたら、ぐうの音も出ないというのもまた正直なところだ。

ツッコミの川西の技術には舌を巻く。川西は完璧に女の子の役柄に入り込んでいて、ツッコミ台詞もそのキャラクターから逸脱しないままに繰り出される、ゆえに物語に破れ目がなく、観客は終始二人の世界の内側にかくまわれた状態でいられる。例えば水田が、サービスエリアでゴールドカードを差し出しつつ「2回払いで」とボケたとき、川西はただ唖然として助手席の水田を見つめる。川西は川西としての反応ではなく、本当にびっくりした女の子のリアルな反応をみせているのだ。観客のスムーズな共感は、爆笑を生むための有用な誘い水だ。単なる漫才の「ツッコミ」という役割を超えた川西の確固たる演技力こそ、和牛のオリジナリティの最も重要な要素のひとつだと僕は確信する。

個人的な好みでいうと、水田の嫌味なキャラクターがより濃厚に出ていた昨年のネタの方がアクが強くて好きだったのだが、今回彼らはフラットなキャラクター設定であるという弱さを、超弩級のテクニックで凌駕してしまった。昨年少し気になった、川西が水田へ返答する直前にワンテンポ空いてしまう感じも見事に払拭され、ワンシーンごとに最適なテンポで笑いを詰め合わせる工夫がなされていた。今回の決勝メンバーの中で最も、”研ぎ澄まされた”という形容が似合うコンビだと感じた。

 

 

最終決戦① スーパーマラドーナ

ネタが始まった瞬間、なるほどこのネタで来るのかと僕は唸った。これは今の彼らが最も得意としている「田中の一人芝居」形式のネタではない。1本目と同じ枠組みのネタを2本目でもやる場合、1本目を凌ぐ笑いの要素がしっかり備わっていれば爆発が期待できるが、逆にパターンが飽きられてしまって不発に終わる場合もある(2010のパンクブーブー、2015のジャルジャル)。スーパーマラドーナは後者に陥るのを回避するため、あえて全く異なる装いのネタをもってきた。これはきっと勇気のいる選択だったろう。

そして彼らの目論見は心憎いほどに奏功した。先ほど武智は策士だと書いたが、策士の面目躍如ともいえる英断だったわけだ。「俺が侍やるから、おまえチンピラやれ」。なんだ、ベタなコント漫才の入り方だな…そう油断させておいてから、「町娘やれ」「野次馬やれ」「ちょんまげやれ」「裏番組やれ」とどんどん設定が飛躍していく。この目まぐるしさは爽快だ。シチュエーションを固定してテンポを速めボケを羅列するというスタイルは、2000年代中盤のM-1のトレンドに戻ったかと一瞬思わされたが、田中がどの役をやっても走り出てきて斬られてしまうという繰り返しのアホさが効いている。

一人芝居にツッコむネタから二人の掛け合いで笑わせるネタに切り替えた戦略は、結果的には、音響をモノラルからステレオにスイッチするような目覚ましい効果を生んだ。優勝こそできなかったが、名軍師・武智の戦いっぷりに脱帽だ。あと関係ないが番組中、ネタ以外の部分で積極的に笑いをとりにいっていた田中の勇姿にも感動した。

 

最終決戦② 和牛

スーパーマラドーナとは逆に、1本目と同じフォーマットを選んだのが和牛だ。男女のデートという設定から、中盤で大きなトラブルが起こり、最後には水田が逆ギレするという流れまで、同じ鋳型で成形した漫才である。では肝心の中身はどうか。高級レストランのディナーで言えば、同じコースであっても季節ごとに料理の内容は変わっていく。「夏のコースのほうがおいしかったね…」では駄目なのだ。その点、僕の感覚で言うと、彼らの2本目のネタのクオリティは、1本目のそれを確実に上回っていた!「前に来た時のフィレ肉のローストもおいしかったけど、このサーロインのグリルはもっとおいしいね」というようなことで、観客はA5ランクの最高級和牛料理に舌鼓を打ったのである。

蛙に長々と喋りかけるシーン、射的の銃を構える上下迷彩服、指輪を巻いた蛙を探す二人の間抜けな動き(川西の「探せ探せ、指輪が逃げる」というフレーズ!)…秀逸なくだりの連発に、僕はひとりでテレビを見ながら思わず興奮して立ち上がってしまうほどだった。ただ、ラストで水田が逆ギレした後に、1本目でいうアスレチックの動きのような大展開が、さらに乗っかっていてほしいとつい期待してしまったのは僕だけじゃないはず。最後10秒が惜しかった! オチは「金魚すくい行ってくる」みたいに守りに入らず、さらに欲張って攻め込んだとしても、この日の和牛の勢いならすんなり受け入れられたと思うのだ。これは気鋭のストライカーに代表戦でのハットトリックを期待するような、身勝手なサポーターのいち要求にすぎないのだけれど、そんな期待を抱かせるほど彼らは突出した決定力をもっているということなのだ。

 

最終決戦③ 銀シャリ

出だしの「うんちくん」から、橋本のツッコミがもう、たまらない。「なんやその謎のゆるキャラは」「うんちくんでゆるキャラ、それはもう下痢やから」。

やっぱり要所要所で期待に応えてくれるのが彼だ。「『を言ってくれてありが』どこいってん。言葉の出血多量や」「その当時に七分丈という概念が存在してるやん」「(『語源ってそういうもんやから!』に対し)それ一本の命綱すごいな」。最後の鰻の「バリ、バリ、バロリ、ブロリ、ブロコリー、ブロッコリー」は、僕はまんまとツボに入ったのだが、客席はもっとウケてもよかったんじゃないか。

笑いのデシベル数でいえば、最終決戦はスーパーマラドーナや和牛には及ばなかったかもしれない。しかし銀シャリの持ち味が存分に発揮されたネタで、言葉のもつ面白さを懸命に発掘するような、二人のひたむきな姿勢が眩しい佳品だった。のちのインタビューで橋本はこんな風に語っている。『1本目のほうがボケ数も多いし、2本目はやってても難しいんですが、「しゃべくりで行くぞ!」っていう表明の漫才というか、2人でしゃべるというポリシーを詰め込んだ漫才だった。』(お笑いナタリー)漫才ファンからすると本当に嬉しい、男気に溢れた決意表明だ。漫才師としての矜持を見せつけ、しゃべくりという表現形態の牙城を全身全霊で守り抜いた二人の優勝を寿ぎたい。

歌詞和訳 Bob Dylan "Tangled up in blue"

"Tangled up in blue"

【原文】
Early one mornin’ the sun was shinin’
I was layin’ in bed
Wond’rin’ if she’d changed at all
If her hair was still red
Her folks they said our lives together
Sure was gonna be rough
They never did like Mama’s homemade dress
Papa’s bankbook wasn’t big enough
And I was standin’ on the side of the road
Rain fallin’ on my shoes
Heading out for the East Coast
Lord knows I’ve paid some dues gettin’ through
Tangled up in blue

She was married when we first met
Soon to be divorced
I helped her out of a jam, I guess
But I used a little too much force
We drove that car as far as we could
Abandoned it out West
Split up on a dark sad night
Both agreeing it was best
She turned around to look at me
As I was walkin’ away
I heard her say over my shoulder
“We’ll meet again someday on the avenue”
Tangled up in blue

I had a job in the great north woods
Working as a cook for a spell
But I never did like it all that much
And one day the ax just fell
So I drifted down to New Orleans
Where I happened to be employed
Workin’ for a while on a fishin’ boat
Right outside of Delacroix
But all the while I was alone
The past was close behind
I seen a lot of women
But she never escaped my mind, and I just grew
Tangled up in blue 

She was workin’ in a topless place
And I stopped in for a beer
I just kept lookin’ at the side of her face
In the spotlight so clear
And later on as the crowd thinned out
I’s just about to do the same
She was standing there in back of my chair
Said to me, “Don’t I know your name?”
I muttered somethin’ underneath my breath
She studied the lines on my face
I must admit I felt a little uneasy
When she bent down to tie the laces of my shoe
Tangled up in blue

She lit a burner on the stove
And offered me a pipe
“I thought you’d never say hello,” she said
“You look like the silent type”
Then she opened up a book of poems
And handed it to me
Written by an Italian poet
From the thirteenth century
And every one of them words rang true
And glowed like burnin’ coal
Pourin’ off of every page
Like it was written in my soul from me to you
Tangled up in blue

I lived with them on Montague Street
In a basement down the stairs
There was music in the cafés at night
And revolution in the air
Then he started into dealing with slaves
And something inside of him died
She had to sell everything she owned
And froze up inside
And when finally the bottom fell out
I became withdrawn
The only thing I knew how to do
Was to keep on keepin’ on like a bird that flew
Tangled up in blue

So now I’m goin’ back again
I got to get to her somehow
All the people we used to know
They’re an illusion to me now
Some are mathematicians
Some are carpenters’ wives
Don’t know how it all got started
I don’t know what they’re doin’ with their lives
But me, I’m still on the road
Headin’ for another joint
We always did feel the same
We just saw it from a different point of view
Tangled up in blue

・・・・・・・・・・・・・・・

【和訳】 
ある早朝 太陽は輝き
俺はベッドで寝転んでいた
彼女はすっかり変わってしまったか
髪はまだ赤いだろうかと考えていた
彼女の家族は言っていた
俺たちの生活は全くつらいものになるだろうと
みんなママのお手製のドレスが好きじゃなかったし
パパの預金通帳は充分じゃなかった
俺は道端に立っていた
雨が靴に降りかかっていた
俺はイーストコーストへ向かった
俺が経験を積んで切り抜けてきたことを神は知っている
ブルーにこんがらがって

最初に出会ったとき彼女は結婚していた
でもすぐに離婚した
彼女が窮地から脱する手助けを俺はしてやったと思う
でも俺は少し乱暴すぎたみたいだ
俺たちはできるだけ遠くへ車を走らせ
遠い西部で乗り捨てた
悲しい闇夜に俺たちは別れた
それが一番良いんだと納得して
彼女は振り返って俺を見た
俺は歩き去っていくところだった
彼女が俺の肩越しに言うのが聞こえた
“いつかまた通りで会えるわよ”
ブルーにこんがらがって

俺はグレートノースウッズで職を得て
しばらくコックをやっていたが
仕事は全く好きじゃなかったし
ある日ついにクビになった
それからニューオリンズへ放浪し
たまたま雇ってもらって
漁船でしばらく働いた
ドラクロワ島のすぐ沖で
でもずっと俺は孤独だった
過去はぴったりと後ろに寄り添っていて
多くの女に会ったが
彼女が心から消えることはなかった 俺はいっそう
ブルーにこんがらがって

彼女はトップレスの店で働いていて
俺はビールを飲みにそこへ入った
ただただ彼女の横顔を見つめ続けていた
くっきりとしたスポットライトに照らされるそれを
あとで客がまばらになった頃
俺も同じように外へ出ようとした
そのとき彼女が俺の椅子のすぐ後ろに立っていた
そして言った ”あなたどこかで会ったかしら”
俺は小声でぼそぼそ呟いた
彼女は俺の顔の皺を見つめた
少し落ち着かない気分だったのは認めよう
彼女が俺の靴紐を結ぶために屈み込んだときには
ブルーにこんがらがって 

彼女はストーブに火をつけて
俺にパイプを差し出し
“どうしてもあいさつすらしないのね” そう言った
“寡黙な人ね”
それから詩集を開いて
俺に手渡した
イタリアの詩人の書いた
13世紀の本だった
全ての言葉が真実のように響き
燃える石炭のように輝き
全てのページから溢れ出していた
まるで俺が君へ魂を込めて書いたものみたいに
ブルーにこんがらがって

俺はみんなとモンタギュー通りで
階段の下の地下室に住むことにした
夜にはカフェで音楽が流れ
革命の雰囲気が漂っていた
あるときあいつがろくでもない奴と取引をし始めて
あいつの中の何かが死んだ
彼女は持っているものを全部売り払う羽目になって
心は凍りついてしまった
もう取り返しがつかなくなったとき
俺は引き上げることにした
唯一やり方を分かっていたのは
とにかく流れ続けるということ 鳥が空を飛ぶように
ブルーにこんがらがって

そういうわけで俺はまた元に戻ろうとしている
ともかく俺はまた彼女と連絡を取るようになった
俺たちがかつて出会った人たち
今じゃみんなが幻さ
数学者もいたし
大工の嫁さんもいた
どうやってそうなったか知らないし
どう生活しているのかも知らない
一方俺は相変わらず道端に立って
また別の場所へ向かおうとしている
俺たちはいつだって同じ気持ちだった
ただ捉え方が違っていただけなんだ
ブルーにこんがらがって

・・・・・・・・・・・・・・・

後半の"I lived with them on Montague Street"から始まる段落がよく分からなかった。このthemやheやsheは誰なのか。sheはずっと登場しているsheと同じなのか。deal with slavesは時代的に奴隷ではなさそうなので「ろくでもない奴と取引」と訳してみたが。

ご意見ご指摘、歓迎。

歌詞和訳 Bob Dylan "She belongs to me"

来週ボブディランのライブに行くので
予習をかねて歌詞を和訳。 

"She Belongs To Me"

【原文】

She's got everything she needs
She's an artist, she don't look back
She's got everything she needs
She's an artist, she don't look back
She can take the dark out of nighttime
And paint the daytime black. 

You will start out standing
Proud to steal her anything she sees
You will start out standing
Proud to steal her anything she sees
But you will wind up peeking through her keyhole
Down upon your knees.

She never stumbles
She's got no place to fall
She never stumbles
She's got no place to fall
She's nobody's child
The Law can't touch her at all.

She wears an Egyptian ring
That sparkles before she speaks
She wears an Egyptian ring
That sparkles before she speaks
She's a hypnotist collector
You are a walking antique.

Bow down to her on Sunday
Salute her when her birthday comes
Bow down to her on Sunday
Salute her when her birthday comes
For Halloween buy her a trumpet
And for Christmas, give her a drum.

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

【和訳】

あの子は欲しいもの全部手に入れた
芸術家だし、うじうじしない
あの子は欲しいもの全部手に入れた
芸術家だし、うじうじしない
夜から闇を取り出して
昼間を黒く塗ることだってできる

君は立ち上がって
あの子の見るもの全部を得意げに盗もうとする
君は立ち上がって
あの子の見るもの全部を得意げに盗もうとする
でも結局鍵穴からあの子を覗き見ようと
ひざまずいてるだけなのさ

あの子は決してヘマを犯さない
落ちていく場所もない
あの子は決してヘマを犯さない
落ちていく場所もない
あの子は誰の子どもでもない
法律なんかじゃ縛れない

あの子はエジプトの指輪をはめていて
喋ろうとするときらめくんだ
あの子はエジプトの指輪をはめていて
喋ろうとするときらめくんだ
あの子は催眠術師を囲ってる
君なんかは歩く骨董品だな

日曜にはあの子にお辞儀をして
誕生日にはあの子を讃えるよ
日曜にはあの子にお辞儀をして
誕生日にはあの子を讃えるよ
ハロウィンはトランペットを買ってやる
クリスマスにはドラムをあげるんだ

・・・・・・・・・・・・・・・・

2番はちょっと飛躍させてしまったかな。あまり自信なし。
"steal her anything she sees" の構文がよく分からない…。
ご意見ご指摘、歓迎。

ザコシショウを笑う/笑わないの分かれ道

R-1ぐらんぷり2016で優勝を飾ったハリウッドザコシショウ。ネット上では彼の優勝を讃える言葉ももちろん多くあったものの、逆に「何が面白いのかわからない」「ただ怒鳴ってるだけ」というような否定的意見も散見された。僕自身は、獣性の解放とでもいうべき思いきりのよい彼の芸に存分に笑わせてもらったし、仮にあの芸が野蛮なだけであるとしても、野蛮さの突き抜け具合に紛れもない独自性を感じて圧倒されたものだった。要するに僕は肯定派だ。なので、否定派の人たちがザコシショウを面白く感じるなんらかの術はないのだろうかなどと、少しばかり考えこんでしまったのである。

昨年、オールザッツ漫才でZAZYという若手ピン芸人がネタを披露した。彼はかなり突拍子もない、摑みどころのないフリップ芸を得意としており、このときも相当奇抜なネタを演じ客席を笑わせるというよりは困惑させていた(記事の最後に動画を載せています)。彼のネタが終わったあと、MCの笑い飯・哲夫は客席に向けてこう発言した。「みなさん、ZAZY を観るときは、頭の中に小さなツッコミを置いて観てくださいね」。つまり「なにをしてんねん」「意味分からんわ」など、ZAZYを観ながら自分で心の中でツッコめば楽しめるでしょ、ということである。

この哲夫のレクチャーは実に啓蒙的だ。ザコシショウの芸にも同じ事があてはまる。僕は彼の芸を観る時、無意識のうちにツッコんでいる、意識的にやっているわけではないがそうだと自分なりに思う。「勢いだけやないか」「こわいわ」「なんやその動き」「どこが木村拓哉やねん」「古畑任三郎そんなん言わんわ」などなど。思うに、ザコシショウを面白くないと言う人は、”全くツッコミ気質でない”人なのではないか。漫才などでボケとツッコミの役割分担がなされている場合、ツッコミはボケの矛盾や不条理性を解説・指摘することで、お客さんの共感と笑いを呼び起こす。ピン芸の場合はツッコミ役がいない。ボケがどんなに意味不明であったり不条理であったりしても、観客はそのまま受け止めるほかない。そこでぽかんとして心を閉ざすのか、はたまた自らツッコミ役になって笑い飛ばすのか。ここがザコシショウを楽しむ人と楽しまない人の分かれ道だと思う。

僕の友人に、大学入試の現代文をツッコミの視点で読み解いてみるという、ユニークで興味深い記事を書いた者がいる。(コレ↓)

この記事の後半で書かれている「ツッコミはボケと同様にクリエイティブであり、ツッコミ能力は社会における創造的コミュニケーションにも活きてくる」という内容に僕も完全に同意する。ツッコミは要するに”気づき”で、それにより笑い、つまり肯定的反応を引き起こすポジティブな働きかけなのである。お笑いに限らず映画でもアートでも文学でも社会問題でも、理解不能なものに出会ったときに、理解不能であるという理由だけでただ顔をそむけるのではもったいない。ツッコミは自分とは異なる考えや未知の世界(≒ボケ)に向かためのひとつの有用な所作であり、対象をより詳しく知るためのきっかけにもなろうものなのだ。

ザコシショウを笑うことは、ある種の異文化コミュニケーションを楽しみ自分の視野を広げることと同値なのだと言ってしまえば、否定派の方々のうちグローバルな嗜好をもつ層なら少しばかり騙されてくれるだろうか。もっともこちらは騙すつもりではなくけっこう本気で言っているのだけれども。

 

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オールタイム漫才ネタベスト10 ⑩スリムクラブ「人違い」

ジャズミュージックの世界ではテンポの速い曲が流行したあとテンポの遅い曲が流行ったという歴史があるのを聞いたことがあるが、同じように、ネタのテンポの遅速という側面から漫才の歴史を説明することもできる。

かつて島田紳助は、当時主流だった漫才のテンポを8ビートとすれば自分たちの漫才は16ビートであったと表現した。倍の速さで言葉を詰め込むスタイルにすることで、新しい漫才を作り出そうと考えたという。実際、彼らの16ビート漫才は1980年代初頭の漫才ブームの波にも乗って大いに流行した。しかし漫才ブームが終焉すると今度はダウンタウンが登場してきた。彼らは4ビートの漫才だった、と紳助は評する。ダウンタウン紳助竜介などに代表されるような速い漫才を否定し、あえてテンポを遅くすることでまた新たな地平を切り開いた。

それから20年以上経った後、M−1の舞台でも同じような現象が起こった。2008年に優勝したNON STYLEは16ビート漫才だった。4分という短い制限時間のなかでより多く笑いを生み出すために、彼らは徹底してテンポを上げボケの手数を増やす戦法に出た。2009年優勝のパンクブーブーや、言葉遊びボケをこれでもかと連発するナイツも、ボケの多さという意味では16ビートといえるだろう。そんな潮流がM−1を席巻していた頃、2010年のM−1決勝の舞台に立ったのがスリムクラブだ。彼らのネタは逆に、非常に間を長くもった4ビート漫才だったのだ。

 

漫才のテンポを遅くする場合、言葉数やボケの数が少なくなるというハンディキャップを背負うことになるため、爆発的な笑いを生むためにはよほどのうまい計算と必然性がなければならないだろう。

ダウンタウンは漫才を作る時、ある設定から苦もなく導けるであろうベタなボケを出し尽くした後、じゃあそれを崩しずらしてどんな新しいボケを作り出せるだろうかと考える、という手順を踏んでいたのだという。そんな作業を経ることで、松本の一見理解しにくいシュールなボケ――真骨頂はクイズネタでの「たかし君はリンゴを5個買いにいきました。さて…なんでしょう?」だろう――が生み出されることとなった。それは誰も観たことのないタイプのボケだった。人間が理解不能なものに出会ったときには、”戸惑い笑い”とでもいえる気持ちの悪い尾を引いた笑いが生まれるが、それを完全に掬い上げるには長い間(ま)が必要だ。そしてその間をやり過ごし観客に充分に咀嚼させたうえで、浜田が戸惑いについて的確な説明・指摘を加える、だから大きな笑いがつくられる。これがダウンタウンの漫才だった。つまり松本の先鋭的なボケは、テンポの速さを捨ててこそ活きてくるものだった。

ネタの設定やキャラクタライズのあり方は全く違えど、スリムクラブのこのネタも理解不能な発言でツッコミの動きを封じるという手法であり、テンポを遅くするだけの説得力を充分にもっている。真栄田は自分の風貌と声を活かして精神を失調した人間の雰囲気を醸成することに成功しているが、このキャラクターの不気味さもスローテンポでこそじわじわと効いてくるものだ。またここまでテンポが遅いとひとつひとつのボケに何が出てくるのか当然観る者に期待をもたせてしまうわけだが、「この世で一番強いのは放射能」「この世で一番弱いのはうずら」「実家の土地に勝手に大きな塔を建てた」「左手全部折ります」「こうして成長してきたんです」などなど、いちいち期待を見事に超えてくれる。自身のキャラクターを見極める客観的視点でスローテンポを必然的に導き出し、なおかつ天性の大喜利力によって笑いの総量を担保しているネタなのだ。

2010年のM-1でこの漫才が演じられた後、審査員の松本人志は「時間が惜しくないのかね」と感想を述べた。それは挑戦心を讃えての愛のあるツッコミであったのだが、かつてまさに時間が惜しいような表現を発明し漫才を変革した自分の姿を重ね合わせもした発言だったのだろうかと、僕はテレビを前にして余計な推測をしたものだ。

このスリムクラブの登場により2010年代はテンポの遅い漫才にスポットが当たるかに思われたが、そうではなくその後THE MANZAIではウーマンラッシュアワーが台頭し、逆に32ビートともいえる超早口漫才が一世を風靡した。この一連の流れもまた、漫才の様式の変遷を考えるうえでは興趣に富んだ現象だろう。

 

(画質はかなり悪いです)

オールタイム漫才ネタベスト10 ⑨ガスマスクガール「走馬灯」

コントと漫才の違いとはなんだろう。

動きの少ないのが漫才??衣装を着るのがコント??いろいろな考え方があると思う。僕がなんとなく思っている区別の仕方はこうだ。漫才とはセンターマイクの前に立った素(す)の芸人が主役になる表現形態であり、コントとは芸人によって演じられる登場人物が主役になる表現形態である。噛み砕いて言えば、漫才は『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、別人を演じることなく本人自身としてしゃべることで何かを表現するネタ』、コントは『芸人たちが別人を演じることで何かを表現するネタ』…ということ。

ところが周知の通り、いまの若手漫才師たちのネタを見渡してみると、漫才にコントの形式を用いるネタがなんと多いことか。例えば2007年のM-1で優勝したサンドウィッチマンのピザ屋のネタ。二人はさっさと店員と客というコントの設定に入る。これはセンターマイクをどけて店員の制服と客のラフな服装に着替えてしまえば、キングオブコントでも何の問題もなく披露できるタイプのネタだ。つまりセンターマイクの前で演じるコントなのである。これに対し、コントに入ることなく純粋に本人たち自身のしゃべくりで勝負する漫才師(チュートリアルブラックマヨネーズ海原やすよともこ囲碁将棋、銀シャリ、学天即、・・・)は、きっと漫才とコントを峻別したいというこだわりをもってネタ作りをしているはずなのだ。

しかし僕はここで自分に疑念を感じる。サンドウィッチマンの漫才を、コント形式の漫才だからと言って否定することなどできるだろうか? 事実、サンドウィッチマンのネタはめちゃくちゃ面白い。純粋なしゃべくりにこだわるあまり、本当に面白いネタを切り捨ててしまうようなことになれば、本末転倒だ。原則論は原則論として、漫才を楽しみ愛するうえではもっと別の視座が必要なのではないか。 

そこで僕は冒頭に言った内容を修正しようと思う。『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、別人を演じることなく本人自身としてしゃべることで何かを表現するネタ』、これを”狭義の”漫才と言い直すことにする。一方、もっと自由度を高めて『芸人たちがセンターマイクの前に立ち、どんな形式であれしゃべることで何かを表現するネタ』。これを”広義の”漫才としよう。当然、面白い漫才は狭義にも広義にも存在する。というか面白いかどうかに狭義か広義かは関係ない。

 

ずいぶん前置きが長くなってしまったが、今回のガスマスクガールのネタの話だ。このネタを見て、これは漫才といえるのか? コントではないのか? コントですらなく演劇なのではないか? などなど、訝る人は多いだろう。僕自身もこのネタのジャンルについては迷うところがあった。しかし結果的には、上のように”広義の”漫才を肯定することによって、順接的にこの走馬灯のネタを紛れもない漫才であるとみなし擁護しようと思うに至ったのだ。

お笑いに限らず、文学であれ音楽であれ映画であれ、表現の世界にはジャンルの議論がつきまとう。芥川賞直木賞はどう違うのか…純文学と大衆文学はひょっとするとどの雑誌に掲載されるかで決まる程度の区別ではないのか…ロックとパンクはどう違うのか…TSUTAYAの棚の名称付けにも腑に落ちないものが多い…。境界はえてしてファジーだ。必然的に、ジャンルとジャンルの境目にあるような作品、容易なジャンル分けを拒むような作品が生まれるわけだが、間違いなく言えるのは、そういった作品こそ様式や類型の狭苦しい壁を押し広げるための可能性や個性をはらんでいるということだ。これは漫才なのか、コントなのか、演劇なのか…そんな迷いを感じさせるネタこそ、”広義の”漫才の一番端っこ、ジャンルの国境線上に陣取る漫才であり、漫才の領土拡大を狙う果敢な意志をもったネタだと思うのだ。

「優れた漫才のネタはどれか」を考える作業は、つまるところ「漫才とは何か」を考える営みに直結する。ガスマスクガールの『最も漫才らしからぬ漫才ネタ』を言祝ぎつつ、そんなことを考える。